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【日米通算250セーブ達成記念インタビュー】オリックス・平野佳寿 “もうちょっとだけ”の思い「失敗したあとの『一歩』が大事だったなと思うんです」

 

セーブはチームの勝利を意味するものだからこそ、目指すのは試合後に笑顔で喜びを分かち合う、この瞬間だ


キャリアを重ね変わった心と体


座右の銘『一所懸命』は、歩んだ軌跡が物語る。今年10月2日の日本ハム戦(京セラドーム)で、史上4人目となる日米通算250セーブを到達した。プロ入り当初の先発時代、2011年のセットアッパー時代を含め、登板試合は計835──。中には、痛打を浴びての救援失敗も含まれるが、そんな苦い思いを乗り越えたのは、“もうちょっとだけ”の思いだった。
取材・構成=鶴田成秀 写真=BBM

──あらためて250セーブという数字を見て思うことはありますか。

平野 プロに入ったときは先発だったので、まったく頭になくて。だから、まさか250もセーブを積み上げられるなんてという思いですね。本当に長いこと投げさせてもらったから達成できた数字、いろんな巡り合わせがたまたま積み重なっての数字が250かなとも思うんです。

──ただ、今季は残り29セーブで開幕を迎えたとあって“今年”に限っては意識させられたのでは。

平野 まあ、正直(笑)。でも、昨年が終わって体がボロボロというか、ガタがきているところもあったので。昨年は28セーブの成績を残した中で、今年は29セーブを挙げないと達成できない。正直な思いを言うと……、許されるのなら2年をかけて達成したいなって思いもあったんですよ。今年だけで250セーブまで届くと思わなかったですから。だから『絶対に今年達成する』という思いはなかったんですよね。

──毎試合、全力を尽くして一つずつ積み上げ、届かなければ来年、と。

平野 そういう思いでした。ただ、来年も投げられる保証はないじゃないですか。だから、今年ダメなら(達成できなければ)、来年もダメだなとも思っていて。250という数字は考えず、通算の数字を目標に置くことはなく、本当に一つひとつの積み重ね。1試合1試合登板を重ねていって、結果的に達成できれば、と思っていたんです。

──目の前の登板に集中するだけだったということですね。

平野 先を見てもね。だって、体もボロボロだったし、いろいろと不安も多かったですから。

──今季は日米通算18年目。ベテランの域に入り、キャリアを重ねていく中で、セーブに対する考え方に変化も生まれてきたのでしょうか。

平野 勝ちゲームをそのまま終わらせて、チームに勝ちをつける。マウンドで皆でハイタッチをする。その最高の目標に変わりはないですよ。ただ、“今だから”言えること、今だから分かることもあるんです。

──というのは。

平野 チームが強くなかったときは、優勝争いもしていなかったので、自分の仕事をまっとうしよう、という考えだったんです。でも、この3年間(2021〜23年)は違う。自分の仕事が優勝できるか、できないかに直結していく。そういう試合が多かったので、メジャーからオリックスに帰ってきた3年間のセーブというのは、今までと違う経験、今までとは異なる状況で投げてのセーブだったな、と。本当に良い経験をさせてもらったと思っているんです。

──チームの1勝を意味するセーブに、シーズンの流れ、優勝の行方を左右する意味がプラスされた、と。

平野 この試合は勝ちたい、落とせない。そういう試合ってあるじゃないですか。極端に言えば3連戦を連敗しての3戦目にセーブシチュエーションで9回に投げるとなれば、絶対に勝ちたいし、負けられない。優勝が狙える位置にいれば、チームの流れも考えますからね。ケガなどで離脱した期間もありましたけど、この3年間は違うプレッシャーも感じていたんです。日本シリーズも投げることができましたし、今までと違う“抑えのシチュエーション”“抑えのプレッシャー”を感じることができました。

──そんな中継ぎ・抑えは試合展開によって連投もあれば、反対に登板間隔が空くこともあります。その点の難しさは、いかがでしょう。

平野 終わってみれば『連投、疲れたな』となりますよね。でも、連投しているほうが、体も心も試合に慣れているから楽なんです。僕は連投のほうが好きで、間隔が空くほうが苦手だったんですよ。でも、歳を重ねるにつれて、間隔が空いたら体力が回復して次の試合に臨みやすくなっている。今のチームも連投を回避する方針なので、歳をとった僕には助かります(笑)。良いのか悪いのかは、人それぞれですが、僕個人は年齢も年齢なので、連投すると投げられない体になってきたんだなって。だから昔は間隔が空くのはイヤだったんですけど、今はイヤじゃない。キャリア、年齢を重ねて体も心も変わってきたんだと思います。

13年前の若気の至りも「試す価値はあった」


──キャリアを振り返れば、中継ぎに転向したのは2010年のこと。岡田彰布監督(現阪神監督)の就任1年目のことでした。

平野 僕のプロ入り5年目。前の年(09年)、先発としての僕の成績が良くなくて。そんな5年目に岡田監督が就任されたんです。優勝を目指すため、(09年の)秋のキャンプで岡田監督が先発陣を呼んだらしくて。僕は、あとで知ったんです。「お前たち先発陣が頑張れ」という話をされたらしく。呼ばれた先発投手は岸田(岸田護)さん、山本(山本省吾)さん、金子(金子千尋)、近藤一樹の4人だったんです。そこで思ったんですよ。『僕は、その先発の中には入れなかった』『イチから頑張って、アピールしていかないと』と。そんな形でキャンプに入って、当時ピッチングコーチだった星野(星野伸之)さんに言われたんです。『中継ぎも視野に入れてやろうか』と。

──まだ『先発として』の思いを捨てきれては……。

平野 いや、チャンスだと思いました。プロ入り前のアマチュア時代から先発でやってきて、オリックスでも4年間先発をして、先発にすごいこだわりはありましたけど。でも、この世界に残るには、必要とされる場所で投げるだけ。そういう思いを持っていたので、気持ちの切り替えは簡単にできたんです。

──ただ、調整法なども変わり、難しさもあったと思います。

平野 最初はね。キャンプとかではなく、シーズンが始まってから。プルペンで肩をつくったり、先発と違ってマウンドに上がるまで時間がなかったり。急いで肩をつくらないといけない難しさはありました。でも、先発のときは入念に1週間準備をして、登板前日に『明日が登板だ』と気持ちの面でも負担というか、考えることが多くて。中継ぎは毎日、準備するので、変に気構える感じがなくなったし、毎日、試合に入り込めて、常に皆で戦っている感じが楽しかったんです。

──より一体感を得る中継ぎだからこそ、力も湧いてきたわけですね。

平野 そんな感じですね。それに、岡田監督が、阪神の監督時代にジェフ・ウィリアムス、藤川(藤川球児)さん、久保田(久保田智之)さんの勝ち継投、『JFK』をつくっていたのを知っていたので。中継ぎを重視されるのは分かっていたので『必要とされている』『チャンス』と思えたんです。

──岡田監督とのエピソードでは、ともに勝ち継投を担った岸田護・現投手コーチが、11年のシーズン終了と同時に岡田監督から「明日からオフや。ゆっくり休め」と言われ、平野投手とノースローの完全休養のオフを過ごしたと言っていました。ただ、「キャンプで肩が痛くて仕方なかった。あれは危険」と平野投手と話した、と。

平野 確かにありました、ありました(笑)。僕もまだ若くて、60、70試合投げていて。岡田監督が言ったというより「1回、投げないオフを過ごしてみよう」と思ったんです。ただ、岸田さんの話で1つ訂正を(笑)。完全休養ではないんです。12月までノースローで、1月から投げ始めたんですよ。年が明けるまでキャッチボールもせず、年明けからスタートして。そうしたら肩が痛かったのは本当(笑)。痛くて、肩が回らなくて、2月のキャンプに入っても、しっくりこなくて。でも不思議なもので、オープン戦から感覚が戻り、その(12年)シーズンも70試合くらい(70試合で79回2/3)投げたんです。当時は岸田さんと笑いながら「アカンな」と言っていましたが、結果的にシーズンに間に合った。でも、怖さがあったので、翌年のオフからは12月からしっかり動こう、と。

──今、振り返ってみれば、『完全休養』のオフは、やってみる価値があったと言えるものでしたか。

平野 試してみる価値はありましたよ。まあ怖かったですけど(笑)、でも結果的に開幕に間に合ったので。ただ、あのときは若かったから。『だぶん歳を取ったら、シーズンに間に合わへんな』と思いましたからね(笑)。あの経験があるから、歳を重ねるにつれて早めに準備をしたほうがいいなって思うようになったので、試す価値はあったと思います。

先発、中継ぎ、抑えと託される役割が変わり、2018年から3年はメジャー・リーグで腕を振った


大きな重圧を物語るクローザーの存在感


──重ねた経験は後輩たちへ。山崎颯一郎投手、宇田川優希投手ら若手投手たちは「平野さんから準備の仕方や、気持ちの切り替えの大事さを学んだ」と言っていました。

平野 若い子たちが困っているな、と見ていて感じるときもありますし、そういうときは聞いてみたり、僕の経験を伝えたりするときもあります。でも、正解は自分でつくっていくもの。技術もそう。フォークの握りや投げ方も、教えることはできるけど、正解は自分でつくっていくしかない。メンタルだって同じですよ。

──メンタルのつくり方ですか。

平野 こればっかりは結果を出すしかない。内容も大事ですけど、試合で抑えたら気持ちが上がるし、打たれたら下がる。そんな感じです。野球以外のことでメンタルを保てない。それなら、準備とか調整うんぬんより、試合で抑えるしかないんですよ。

──下がった気持ちを上げていくには、次に抑えるしかない、と。

平野 はい。打たれて、すぐに切り替えるメンタルを僕は持ち合わせていない。『次も打たれたらイヤだな』と思いながら、次の一歩を踏み出してきましたから。そこで抑えて、初めて切り替えることができる。気持ちが下がったまま次のマウンドに立ち、抑えて気持ちが元に戻るんです。打たれたあとは『もうアカン……』『もうダメなんか……』『このまま終わるのか……』と思いますから。でも、次の試合で抑えたら『俺は、まだいける』と気持ちを立て直せる。

──打たれても下を向くことなくベンチに引き揚げ、『メンタルが強い』と言われる平野投手ですが……。

平野 実際はそうではないんです。でも、気持ちが下がったまま一歩を踏み出すのって簡単じゃない。誰だって気が引けるものですよ。でも、その一歩が大事なんです。あっ、これが最初の質問の答えになりますね。250セーブを重ねて思うのは、失敗したあとの『一歩』が大事だったなということです。

──失敗をしても、再び自分を奮い立たせていく次の『一歩』が。

平野 気持ちが折れたまま、前を向けないときもあるけど、そこで、もうちょっとだけ、ちょっとだけでいいから頑張ろうと思えるか。折れた気持ちを戻す一歩は、すごく難しいけど大事。結局は結果で示さないといけない世界ですからね。

一歩を踏み出し続けての大偉業。11月26日のファンフェスタで、山田久志氏[写真左]から、名球会のブレザーが贈られた


──では、オフを過ごす今の心は。

平野 何も考えない! やっともらえた休みですからね(笑)。リフレッシュしてオンとオフはしっかりすることです。心を休めて、体を鍛えていく。そんな感じですよ。

──一方で今季は日米通算200ホールドも達成し、セーブとの『W200』は史上初の快挙。9回と8回以前は“別”という声も聞きます。

平野 そこは考え方次第ですよね。リードを保ったまま投げ終えれば勝てる抑えと、そうではない8回以前。ただ、投げるタイミングも、状況も分かりやすいのは9回です。3点差でマウンドに上がれば、2点は取られてもいい。でも、8回以前は失点を防いで、なるべく得点差を詰めずに次の投手に託したい。イニングまたぎもあったり、イニング途中で代わったりすることもあるし、達成感が違いますから。ただ……。

──ただ?

平野 僕が言うのもおこがましいかもしれないんですが、チームとして考えれば、抑えはどっしりと置くべきなのかなって。抑えが決まっていないと、チームの不安につながるのかなって思うんです。

──セットアッパー時代に『抑えにつなぐ』という思いが力になっていたというようにも聞こえます。

平野 自然と皆がそういう考えになるじゃないですか。中継ぎは複数人いるけど、『抑えにつなぐ』という『抑え』は1人だけ。クローザーが打たれても、すぐに替えが利くポジションでもないというか。

──ただ、近年のオリックスは平野投手の連投回避時に“代役クローザー”たちが結果を出しました。

平野 それはすごいし、ありがたいこと。そういうチームだから優勝ができたんじゃないかなって。今年は(山崎)颯一郎が9回を投げることもあったけど、たまに投げるのは難しくて重圧も大きい中で本当に堂々と投げていた。颯一郎は素質があると思って見ていたんです。

──まだまだ聞きたいことはあるのですが、誌面が尽きそうなので……最後に一つ。平野投手にとってセーブとは何でしょう。

平野 最後に投げる人、最後にマウンドに立っている人です。特に深い答えはないですよ(笑)。

──「まだまだ引退するつもりはない」と言っていただけに思いをまとめるのは早いですね。

平野 はい。長く現役を続けるためにもケガしないように。でも結果が伴わないとダメなのは分かっている。ケガせず結果を出していくことを、まだまだ目指していきます。

PROFILE
平野佳寿/ひらの・よしひさ●1984年3月8日生まれ。京都府出身。186cm88kg。右投右打。鳥羽高から京産大を経て2006年大学社会人ドラフト希望枠でオリックスに入団。1年目から開幕先発ローテ入り。10年に中継ぎに転向すると11年に最優秀中継ぎ、14年には最多セーブのタイトルを獲得するなど絶対的守護神に君臨し、17年には日本代表として第4回WBCに出場した。17年オフに海外FAを行使してMLBへ。18年に日本人メジャー最多となる、75試合に登板するなどブルペンを支えた。20年にオリックスに復帰以降もクローザーを務め、今年5月14日に史上初の日米通算200セーブ&200ホールドを達成。10月2日には、史上4人目となる日米通算250セーブに到達して名球会入りを果たした。

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