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【インタビュー】角盈男(元巨人ほか)『先発兼任→ストッパー専業→勝利の方程式』という変化を体験「江夏さんを追った日々」

 

1981年はセ・リーグ最多の20セーブを挙げ、ストッパーとして巨人の日本一に貢献した角


1イニングなら毎日でも投げられた


セーブが公式に採用されて50年。ここで、先人たちの苦労を聞こう。1978年に巨人へ入団し、80年代を代表するストッパーの一人として活躍した左腕・角盈男。同じ立場の先輩が身近にいない時代、リリーフ専業の投手としていかに抑えの地位を固めたのか。

――今のクローザーは基本的に9回の1イニングを頭から。しかしストッパーと呼ばれていた角さんの時代は、7回でも8回でも走者がいるピンチの場面で登板し、最後まで投げていましたね。

 そうです。変わったのはメジャー・リーグの影響があるでしょうし、選手寿命の問題もあります。僕の時代のストッパーはだいたいみんな3年くらいで肩や肘、どこかを壊していましたから。僕の記憶では大魔神(横浜・佐々木主浩)以降、「1イニング限定」になった気がします。そういうわけだから、今の投手はセーブの数が違いますよね。

――今はリーグトップなら30台後半はいきますが、角さんの時代は20前後。投球回も違いました。

 僕の巨人時代の93セーブがマーク・クルーンと並んでいまだに球団記録なんですけど、クルーンは1イニング限定の時代だったから93セーブの投球回が全然違うんですよ。

――クルーン投手は3年間で161回2/3。角さんは巨人での12年間で691イニング。

 20セーブを挙げた年(1981年)なんて100イニング以上(104回1/3)投げていますから。でも、それは良い、悪いの問題ではないです。今のほうが選手寿命が伸びています。

――今は抑え投手が2イニング目にいくと「イニングまたぎ」と言われ、ちょっと変わったことだとされますよね。

 「いいのか、本当に。選手は大丈夫なのか」みたいな。僕らのときはそういうこと、一切言われなかったですよ(笑)。

――実際、「イニングまたぎ」は体力的な負担が大きいのですか。

 体力的というより、精神的に上げていってマウンドで投げ終わり、チェンジでベンチに戻ると、一旦ストンと落ちますよね。それからまた上げないといけない。そうなると先発投手と同じなんです。僕が全盛期のときは藤田元司監督(81〜83年)だったのですが、「お前、どれだけ投げられるんだ」と聞かれ、「1イニングだけなら130試合OKです。2イニングなら1日、3イニングなら2日休ませてください」と答えた覚えがありますね。それだけ、「イニングまたぎ」は負担が大きかったのは事実です。

――角さんがプロ入りしたのは78年。そのころはまだストッパー専門ではなく、先発と兼業している投手も多かったですよね。

 僕が入った巨人で言うと、新浦寿夫さんがそうでした。僕の1年目の78年、新浦さんは15勝(7敗)15セーブでした。やはり南海の野村克也監督が江夏豊さんをリリーフ専門にして、(78年に)江夏さんが広島に移籍して、それからですよね。僕も「優勝するにはストッパーが必要だ」と言われました。そのころから、各チームが本格的に抑え投手をつくり始めたのではないですか。僕は江夏さんを目標に、追いつけ追い越せと。いや、追い越すのは無理なので、少しでも近付きたいと思いながら追いかけていました。

――角さんはプロ入りしてから「先発ではなくリリーフ専門でやってくれ」と明確に首脳陣の誰かから言われたのですか。

 自然とリリーフになりました。以前は、「リリーフは先発失格の投手がやるもの」でした。二流みたいな感覚。そういう時代でした。今の野球は誰がセットアッパーで誰がクローザーでとチームの中で役割分担が決まっていますが、僕らのときはブルペンで投げて、その日の調子によって誰をどういう順番で出そうとコーチが決めていたところがありました。それが変わっていったのが僕たちの時代というか、僕らが今のスタイルを築き上げたと言っても過言ではないと思います。

伝統を重んじる巨人は完投を重視


懐かしい後楽園のリリーフカーが最も似合う


――角さんは80年、リーグ最多の56試合に登板し、防御率2.28。

 その年のリーグ最終戦の広島戦(10月20日、広島)で江川(江川卓)さんをリリーフしてセーブを決め、Aクラスの3位が決定しました。さあ、来年こそと思ったら長嶋茂雄監督が解任ですよ。

――結果的に、翌81年からの藤田監督の3年間は、角さんのストッパーとしての全盛期になりました。

 そうですね。

――気になるのは、83年のリーグ優勝が決まる試合(10月11日、ヤクルト戦=後楽園)の最終回は江川さんが、抑えれば日本一が決まる西武との日本シリーズ第6戦(西武)の9回裏は西本聖さんが救援登板。リリーフエースの角さんではなかった。そこが当時のリリーフ投手の地位の低さを象徴しているのかなと。

 結構、83年の最後のほうは肘を壊していましたから。原因はそれだと思います。

――86年になるとサンチェ投手が入団し、鹿取義隆さんと角さんとサンチェさんの3人のリレーが定着します。

 そののちに「勝利の方程式」と言われたような、固定された3投手の継投でしたよね。あのときの僕はすでに肘を壊していたので、長いイニングを投げられなかったんです。それで球団はサンチェを獲得して、僕と鹿取が「ダブル・セットアッパー」という役割になりました。

――固定された3人の救援投手は今でこそ珍しくないですが、これも先駆けみたいなものでしたよね。

 適材適所だったと思いますよ。僕は長いイニングを投げない代わりに左バッターを確実に抑える。右バッターは鹿取が抑える。そして最後はサンチェが締める。

――先発投手は完投が当たり前だった時代からの変化ですね。

 特に巨人はプライドが高く、伝統を守りたいので、完投にこだわるところが最初はありましたね。V9初期のころに「8時半の男」と呼ばれた宮田征典さんはいらっしゃいましたけど、それは例外。僕がストッパーになったときも普段どのように準備するのかというのは見よう見真似で、自分でつくっていったところがありましたよ。

――試合中の過ごし方などですか。

 例えば、前半はマッサージを受けながらゆっくりと過ごし、6回くらいからブルペンで試合展開、点差、先発投手の調子を見ながら自分の出番を予想して準備する。先発が江川さんだと完投するし、完投しないときは負けるときだからストッパーの出番はない。西本は走者を出してピンチになったぞとこっちが思っても、シュートで併殺に打ち取るから逆の意味で厄介でした。僕の一番のお客さんは定岡(定岡正二)。定岡の場合は7回くらいで僕の出番になる(笑)。

 基本的に、僕は8回くらいが出番と思って調整していました。ブルペンで7回くらいにキャッチボールをして、次、行くぞと言われたら捕手に座ってもらって1球だけ本気で投げ、マウンドに行っていました。マウンドでも8球練習できましたけど、最初の6球は足場慣らし。7球目だけ全力で投げ、8球目を山なりに投げたらロージンバッグを丁寧に置くことで気持ちのスイッチを入れました。

――それがルーティンだった。

 はい。ロージンバッグを丁寧に置くのは江夏さんの真似です。同じチームにリリーフ専門投手の先輩がいなかった分、そうやって江夏さんの影響を受けていた部分はあったのかもしれないですね。


PROFILE
すみ・みつお●1956年6月26日生まれ。鳥取県出身。米子工高から三菱重工三原を経て巨人から76年秋のドラフト3位指名を受け、78年に入団。1年目から60試合に登板し、5勝7敗7セーブの成績で新人王。左腕からの変則的な投法を武器に81年にはストッパーに定着し、日本一に貢献。同年は8勝5敗20セーブで最優秀救援投手に輝く。89年途中に日本ハム、92年にヤクルト移籍。92年のリーグ優勝に貢献して現役引退。現在は野球評論家。

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