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オフに入り、各球団はシーズンに向けての戦力補強に余念がありません。私も現役時代、移籍を経験しました【辻発彦のはっちゃんネル】

 

筆者は96年、西武からヤクルトへ移籍した[写真=BBM]


 オフに入り、各球団は2024年シーズンに向けての戦力補強に余念がありません。チームが変わり新しいユニフォームを着る選手は、意気込みも高まっていることでしょう。

 私も現役時代、移籍を経験しました。

 西武時代の1995年のオフ、二軍コーチ就任を打診されましたが、まだ自分自身やり切った感がなかったので自由契約にしてもらい現役を望みました。

 最初に声を掛けてくれたのが、野村克也監督率いるヤクルトでした。その後、ロッテ広岡達朗GMから連絡をもらい「ぜひうちに来てほしい」と言っていただきましたが、最初に声を掛けてくれたこと、将来のためにセ・リーグの野球を経験してみたいという思いもありヤクルト移籍を決断しました。38歳になる年での移籍でした。

 当時のヤクルトは古田敦也選手や池山隆寛選手が中心で、ほとんどの選手が自分より年下でした。西武時代とは違って、ロッカールームがにぎやかだったことに驚きました。試合前でもあちこちから違った音楽が流れてくるし、娯楽室では将棋やサッカーゲームを楽しんでいる選手もいました。でも、そんな選手たちは試合が始まったら黄金時代の西武と同じくチームが一つになる。これが「野村ヤクルト」の強さだったのかもしれません。私自身、最後のシーズンになるかも分からないので、すべてを出し切るということだけを一番に考えました。また、移籍したことで環境も変わり新鮮な気持ちで野球に没頭することができました。ID野球を標榜する野村監督のミーティングも興味がありました。人間教育から始まり、野手心理、投手心理を細かく説く。目からうろこの話も多かったです。

 例えば今の野球ではよくあることですが、当時ではノースリーから打つということがそうあることではありませんでした。もちろん、得点圏に走者がいたり無走者でも長打を打てる打者は状況に応じてですが、積極的に打つ姿勢が求められました。実は、私も野球を初めて唯一1度だけスリーボールから打ったことがあります。それはヤクルト入団1年目のオープン戦初戦、走者二塁のチャンスでカウントノースリー(スリーボール)という状況でした。もちろんオープン戦ということもあり「待て」のサインが出なかったので、ど真ん中の真っすぐを強振しタイミングよく打てたのですが、結果は左飛に終わりました。

 ベンチに戻ると野村監督に「狙いは良かったが、技術が伴わなかったな」と笑いながら言われたことを今でも覚えています。西武で12年間やってきた私のプレースタイルでしたから「ノースリーでは待つ」感覚が体に染みついていたということでしょう。

 西武入団時は球団に骨を埋める覚悟でしたが、ヤクルトに移籍し、現役引退後もコーチとしてヤクルト、横浜(現DeNA)、中日、さらにWBC日本代表のコーチを務めた経験が大きな財産となり、2017年からの西武監督での6年間でそれまでの経験が大いに生かされました。

 移籍は選手にとって大チャンス。それまで出番に恵まれなかった選手は、球団が変わることによって眠っていた能力が開花する可能性があります。そのためにも新天地では前向きに、必死に野球を取り組んでもらいたいと思います。

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