
東映入りが決まった1958年暮れ、練習に励む浪商高3年時の筆者[写真=BBM]
不公平だった逆指名制度
間もなく日本シリーズが始まるが、その前にドラフト会議がある。戦力外通告が行われてチームから去っていく者がいれば、ドラフトで新しく入って来る者がいるというわけだ。育成選手は何人いてもいいが、支配下登録選手は1球団70人までとルールで決められているから、誰を辞めさせて誰を獲るかはチームの将来的な構成の上でも重要で、より慎重に行われるべきものだ。
さて、そのドラフトだが、昔はドラフトなど存在しなかった。自分で行きたい球団を選べたし、今のようにプロ志望届など提出する必要もなかった。私のことで言えば、卒業後はプロ志望だったから、球団から声が掛かるのを待っていた。どれだけプロに行きたいと思っていても誘いがなければどうにもならない。力不足とあきらめるしかないのだ。それは今でも同じだろう。
幸運にも私はプロのスカウトの眼にかなったようだった。最終的に絞られたのは東映と
中日の2球団。生まれ故郷の
広島は途中で撤退したと聞き、高校2年生のときに「卒業したら来てほしい」と
水原茂監督から直接言われていた
巨人もまた、水原監督のチームへの影響力が薄れつつあり、指揮官の意見は却下されたと聞いた。巨人だったら迷わず入団していただろう。
そういうわけで東映と中日のどちらかを選ぶことになったわけだが・・・
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