
WBCに出場する日本代表の選手たちにはよりよい環境を与えたい[写真=Getty Images]
2人の先輩を偲んで
少し前の話になるが、
中西太さんが亡くなった。中西さんがどれほどの打者であり、指導者だったかは、もはや私が語る必要もないだろう。選手時代は“怪童”と呼ばれた右のスラッガーで、遊撃手がジャンプして捕球しようとした打球がそのままスタンドに入ったなど数々の伝説がある。ただ、私は中西さんのすごさを実際には見ていない。私が東映に入団したとき(1959年)はまだ現役でレギュラーだったものの、全盛期は過ぎていたからだ。
中西さんは
日本ハムの初代監督でもあった。74、75年と2年間、私もお世話になったが、残念ながら監督向きではなかったと思う。
山内一弘さん(元大毎ほか)と同じで監督ではなく打撃を教える“職人”タイプだった。「野に置けレンゲソウ」という言葉があるように、やはりその人にとって最適の場所というものはあるのだ。日本のプロ野球は現役時代の実績で監督を決める傾向が強いが、それは間違っている。しかし西鉄の象徴だった中西さんが亡くなり、
豊田泰光さん、
稲尾和久さんと黄金時代を支えた主力選手もすでにいないから、何となく西鉄が終わってしまった感じは否めない。
さらに東映の先輩にあたる
毒島章一さんも亡くなった。毒島さんは東映一筋18年、私が入団したときはすでにキャプテンを務めていた。足の速い巧打者で三塁打が多く(歴代2位の106回)、右翼の守備もうまかった。駒澤にあった寮で2年ほど一緒に過ごしたものだ。落語が好きで寄席によく行っていた。東映と言えば暴れん坊たちの集まりで知られていたが、毒島さんだけは真面目で常識人だった。だから・・・
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