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裏方が見たジャイアンツ

香坂英典コラム 第11回 すごい世界!

 

筆者の1年目の名鑑撮影。こうやって名前の紙を持ってもらい、あとの間違いを防ぐ


岡崎の運の強さ


 中央大からドラフト外でジャイアンツへ入団したのは1980年、昭和で言ったら55年になる。長嶋茂雄さんが監督ラストイヤーで、王貞治さんも現役最後のシーズン。僕が何をしたわけではないが、巨人の歴史の節目となる1年だった。

 ONのお二人は、あこがれを超えて、雲の上の人だ。同じユニフォームを着てプレーするなんて信じられないし、本当に夢のようだった。ジャイアンツは選手層が厚く、すごい選手がたくさんいたが、この現実の中でやるしかない。厳しい勝負の世界へ足を踏み入れたという覚悟はあった。

 このときの新人は、ドラフト1位が市立尼崎高の右腕・林泰宏、2位はキャッチャーで育英高のヤマちゃん、山崎章弘、3位が箕島高のショートの上野敬三、4位が大分商高の岡崎郁。ドラフト指名はこの4人だったが、ほかにドラフト外で高校生を6人獲得している。だから10人が高校生で、大学生は僕と島ちゃんこと、早稲田の島貫(島貫省一)の2人だけだった(メンバーについては前号で掲載してます)。

 高校大学で合わせて12人の新人が入ったわけだが、残念ながら、大成したのは岡崎郁くらい。だけど僕は、みんなすごい選手たちばかりだと思っていた。スカウトというのは、よく探してくるなあと。林は体も大きくボールも速い。フォークボールも高校生が投げるものとしては抜群の落差と切れだった。林は中日のドラフト1位の浪商高の牛島和彦と関西の高校球界では双璧だったらしい。山崎は現在オリックス投手の山崎福也君のお父さんで、当時は強肩、強打の捕手。キャンプのときに何本もサク越えを連発し、「へえ〜、こんな高校生がいるんだ」と感心させられた。ほかの新人を見ても、その潜在能力に驚きの連続だ。上野は肩が抜群に強く、足も速い、バッティングもシャープで守備範囲も広く、全身がバネのように強く、弾む動きをする。

 林は、宮崎キャンプの紅白戦で先発し、王さんをストレートで見逃しの三振に取り騒がれたが、3月にドジャースのベロビーチに海外野球留学をして帰ってきたら、フォームがおかしくなっていた。本来のダイナミックさがなくなって、王さんを三振に取ったときの林ではなくなっていた。ああでもないこうでもないとフォームを変え、もう自分がなくなっていたんだろう。他人事ながらもう少し何とかならなかったのだろうか、なんとかしてあげられなかったのかと思っていた。かわいそうだったがあれが彼の分岐点になっちゃったかな。最後は別人だった。

 上野も腰を痛めてしまったけど、はっきり言えば、体力のない高校生に対して、ガンガンとオーバートレーニングをやってしまった結果だ。ほとんどの新人はつぶれてしまった。つぶれてしまったら終わりながら、そこを乗り越え、跳ね返してこそ本物という風潮が当時はあったような気がする。厳しい世界だ。しかし、4位の岡崎は肋膜炎を患い1年以上休むことになる。今だから言えるけど、それがよかったのではなかったのかとも思える。体を壊したことでゆっくりと体づくりができた。そして、あのチャンスに強いシャープな打撃で頭角を現した。ある意味運が強いんだね。

80年の入団会見。前列右端が筆者


僕らが育てられた場所


 理不尽なこともずいぶんたくさんあったなぁ……、しかし、プロでものにならなかった選手は何を言ってもそれは言い訳になる。結果を残して名前を覚えられるくらいの活躍をした者が勝ち組、そうでない者は負け組だ。

 そんな環境だったけど、それを自分で超えていった選手もいた。強靭な体、工夫、信念、柔軟な考え。そういった能力を持つ人間が最後に生き残る。これが僕にはできなかった。だから僕は負け組だったと今も悔いが残っている。

 現在のよみうりランドの敷地内にある巨人軍寮より一代古い寮は同じ敷地にあった。寮長は“伝説の鬼寮長”武宮敏明さんだ。熊本工高出身の捕手であった武宮さんは、打撃の神様と言われた川上哲治監督の直属の高校の後輩にあたり、教育方法は一言で言って『軍隊方式』だった。当時では当たり前の鉄拳制裁は日常茶飯事だった。

 新人は1年生とも呼ばれ、全員入寮が義務だ。寮生活の中で巨人軍の伝統や巨人軍の選手としてのあり方を学ぶ。新人は朝晩の球団旗の掲揚、電話当番など持ち回りの仕事があった。起床は8時、門限10時、懲罰は罰金、外出禁止があった。高校生は3年間は寮に住まなくてはならず、基本3年間はマイカーは持てない。たとえ一軍に行ったとしてもだ。だから、同じ寮生だった篠塚(篠塚利夫。のち和典)が原(原辰徳)を、元木大介松井秀喜を球場まで乗せていったりすることもあった。どちらも当時、ライバル同士という関係の2人であったが、寮則が優先していたのだ。

 僕の1年目の二軍監督は岩本堯さんだった。打者出身で攻撃時の戦法を教えられたが、プロってこんな細かい野球をするのかと思い知らされた。複雑なブロックサインも初めて体験する。このサインはほんの一例だが、簡単に紹介すると、攻撃のサインはまずキーのゾーンがイニングごとに変わった。(1回、4回、7回と2回、5回、8回、3回、6回、9回とそれぞれキーが変わる。麻雀のイスーチー、リャンウーパー、サブローキューというふうに呼んでいた)一般的にキーのゾーンを触った次のゾーンが作戦になる。帽子を触り、胸のマークを触れば胸のマークが作戦。胸のマークがバントとか、袖のゾーンが盗塁。そのキーがイニングごとに変わるのだ。

 慣れればなんてことないが、試合中にサインミスをし、雷を落とされた選手は少なくなかった。ただ、このほかにいくつもの攻撃のサインはあり、当然、守備側のサインもある。見破られそうになればキーを変えるなど、柔軟に素早い対応が要求される。フォーメーションプレーは何度も数をこなし、体で覚えさせられる。二軍戦で起きた特異なケースのプレーや一軍の試合で起きたものも含めて、その日のうちにコーチが検証し、ミーティングで頭にたたき込まれるのだ。ルールのペーパーテストもよく行われ、毎日が野球漬けの日々を送った。

 昼は「多摩川グラウンド」、そしてそれ以外は「巨人軍寮」という、厳しく、楽しい? 集団生活の場で僕らは育てられたのであった。

PROFILE
こうさか・ひでのり●1957年10月19日生まれ。埼玉県出身。川越工高から中央大に進み、東都大学リーグで79年春にノーヒットノーランを含む7勝を挙げ、優勝に貢献。全日本大学選手権でも優勝した。80年ドラフト外で巨人入団。84年限りで引退。一軍では8試合登板で1勝0敗0セーブ、防御率4.38。引退後、打撃投手、先乗りスコアラー、広報など巨人一筋で過ごし、20年退社。
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ジャイアンツ一筋41年。元巨人軍広報による回想録!

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