
オーバースロー時代の斎藤雅樹。のち89、90年と2年連続20勝を挙げるなど、巨人の大エースに成長した
1年目は制球難もサイド転向で変身
1983年に僕と同じ埼玉県出身で、ドラフト1位で入ってきたのが、市立川口高の斎藤雅樹だった。読者の皆さんは『サイドスローの素晴らしいピッチャーの斎藤雅樹』は知っていても、『ストライクが入らなくて苦労していたオーバースローの斎藤雅樹』は知らないと思う。
とにかく球は速くて145キロ以上も軽く出るが、コントロールが悪い荒れ球の投手だった。それでも期待の大きかった斎藤は、二軍ながら1年目から先発のチャンスをもらい、マウンドに上がっていた。課題のコントロールを克服できず、四球から自滅してしまうパターンが多く、苦し紛れに投げた球を打たれては下を向いて帰ってくる姿をよく覚えている。
顔は坊や坊やしていたが、一年生の斎藤は高校出ながら、野球センスの塊という印象を持たせた。しかし、まだ体ができておらず、体力づくりに連日取り組んでいた。新人は荷物運びや寮での電話当番など雑用もある。厳しい練習に明け暮れる毎日で体もクタクタ、試合での投球結果も芳しくないとなると、それはそれはつらい日々が続いていたはずだ。僕自身も、歯を食いしばって頑張っていた時期だが、一年生の斎藤は毎日体も心も休まる暇がなかったのだろうなと今思い出す。
その年、僕は調子もよく、途中一軍にも上がっていた。ただ、当時の投手陣がすごい。先発には
江川卓さん、
西本聖さん、
定岡正二さん、
加藤初さん、
槙原寛己、リリーフには
鹿取義隆さん、
角盈男さん(当時は三男)がいた。12球団でトップクラスの鉄壁の巨人投手陣だ。別に打ち込まれたわけではないが、押し出されるように、またファームに落とされてしまった。
ファーム行きのあと、すぐに大宮でのイースタン・リーグ戦に合流。先発は斎藤だったが、あれ? いつの間にか、サイドスローに転向している。そして、これがすごい。ストライクがどんどん入るし、ストレートもカーブもものすごく切れがあり、特にカーブはググッと2段階に変化をする。二軍では誰一人打てる打者がおらず、空振りを取れるカーブがうなりを上げている。
監督の
藤田元司さんがフォームを変えさせたと聞いているが、そこには僕の知っているノーコンの斎藤雅樹はおらず、こんなにも別人のように生まれ変われるものなのかと感心するばかりだった。そういう意味では、斎藤には素晴らしい力もあったけど、運もあったんだと思う。
当時の僕は・・・
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