
早大時代の岡田監督。スイングスピードが速い打撃は圧巻だった
岡田の“伝説的”な好走塁
それにしても、中大2年時に東京・西早稲田にあった安部球場での練習試合で初めて
岡田彰布と対戦したときから、2年後の大学選手権で再び対戦するときまでに感じた「早稲田の岡田」の印象はすごいものだった。リストが強く、そして柔らかい、そのスイングスピードの速さはそれまでに僕が対戦した打者の中で唯一と言って良いほどの衝撃を受けた。まさにワンランク上の打撃で、プロに行っても「即戦力」だと、その力を疑う余地がまったくないものだった。勝負どころで、この岡田のような打者と対戦し、高い確率で打ち取るためには何が必要かと考えた末、たどり着いた僕の答えは「タテの変化」だった。僕は大学4年の夏以降、フォークボールの習得に全力を注ぐ。自身がレベルアップしなければならないことを岡田が教えてくれた。
のちのち何年も時が経ち、仲間同士の一献の場で1979年の大学選手権決勝の話になったときだ(7対3で中大が早大を下す)。
「あんときな、どっちに打とうか迷っとたんや」
なんだ? どっちって……。
「いやぁ、ホームランよ」
ニコニコしながら岡田は言った。僕からスタンドインさせるためにライトに打つか、レフトに打つか迷っていたということなのだ(笑)。言いやがったな、コノヤロー!(笑)。僕も言い返した。
「朝まで飲んでるようなヤツらに負けるわけにはいかんよ」
でも、バンカラな早稲田ナインは岡田の言うように、本当に決勝戦の前夜は夜の街で「前祝い?」をしていたということなのである(笑)。
ここからは真偽を疑う、その試合中の伝説的な話……。決勝戦の8回裏、早稲田の攻撃、四番・岡田が一塁へショートのエラーで出塁、僕は続く五番・
有賀佳弘に三塁線を抜く二塁打を打たれた。一走・岡田は三進、二、三塁というチャンスになるケースだったが、そのとき岡田は自らの判断で三塁キャンバスを強引に回り、本塁へ突入した!
中大守備陣のカットマンの遊撃手・
尾上旭(故人、銚子商高、元
中日)は岡田が三塁で止まると思い込み、レフト・大須賀健から返されたボールを捕った。しかし、岡田はスピードを緩めることなく、走り続けている。尾上が本塁に向かう岡田に気づかず、速やかにボールを返したのは目の前にいるサード・平野和男(元住友金属監督)だった。慌てて平野はすぐさま本塁へ転送、クロスプレー、いや、このとき、まだタイミング的にはアウトだった。そして、岡田は果敢に砂煙を上げながら派手にフットスライディング、中大の捕手・長井研介(元本田技研監督)のタッチも及ばず間一髪で岡田は生還! 「暴走と好走塁は紙一重」、よく言われる言葉だが、どう見てもこれは岡田の暴走としか見られない走塁だった。
このプレーの後日談を、このときに二塁打を打った有賀が教えてくれた。
「岡田は・・・
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