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石田雄太の閃球眼

石田雄太コラム「同じ小川を奪い合いぶつかる強い想い」

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1987年のパ・リーグ新人王を争った西崎幸広阿波野秀幸が、時を経て西崎が西武[写真左]、阿波野が横浜[右]に移籍すると、98年の日本シリーズ第4戦で、救援登板での投げ合いが実現した[撮影=BBM]


一方通行だったライバル関係だが


 野球の世界で頻繁に登場する“ライバル”という言葉の語源が、ラテン語の“rivalis”(小川)だと知ったのは、今から15年前、『ライバル伝説』というドキュメンタリー番組を担当したときのことだ。ライバルの語源は同じ小川を奪い合って争うところにあり、つまり一つの場所を奪い合うのがライバルの本来の意味だった。だからピッチャーとバッターの対決にライバルという言葉は相応しくない。『ライバル伝説』で取り上げたのは、エースという一つの場所を奪い合ったジャイアンツの江川卓西本聖の争いだった。

 江川と西本の出逢いは1973年、江川が作新学院高で3年になった春のこと。松山商高の2年だった西本と練習試合で投げ合っている。西本の記憶によれば、結果は1対0で作新学院高の勝ち。江川に打たれ、江川に封じられ、西本は負けた。そのとき、江川が投げたボールのあまりのすさまじさに西本は打ちのめされたのだという。

 2度目の邂逅は79年。ドラフト外でジャイアンツへ入団した西本はようやく先発ローテーションの座をつかみかけていた。そこへ大騒動の末、あの江川が同じチームへ入ってきた。冗談じゃないと西本は思った。エリートの江川にはプロでの実績がなくても先発ローテーションの椅子が用意されていたからだ。雑草にようやく一輪の花を咲かせつつあった西本にとって、江川は常に背中を追う、一方通行のライバル関係だった。

 しかし、江川も西本を意識していた……いや、意識せざるを得なくなっていった。江川はプロ生活を9年で終えた。通算勝利は135。西本は20年間、現役で投げ続けた。通算勝利は165にのぼる。ともに一度ずつ、20勝を経験した。ただし、西本が江川の数字を上回ることができたシーズンは一度もない。

 そんな江川と西本が・・・

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石田雄太の閃球眼

ベースボールライター。1964年生まれ。名古屋市立菊里高等学校、青山学院大卒。NHKディレクターを経て独立。フリーランスの野球記者として綴った著書に『イチロー・インタビューズ激闘の軌跡2000-2019』『大谷翔平 野球翔年』『平成野球30年の30人』などがある。

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