
イラスト=イワヰマサタカ
以前、米国のスポーツ専門媒体のESPNのサイトが、背番号特集をやっていて、「18」を日本人投手が好む番号と紹介していた。MLBでは
山本由伸、
今永昇太、
前田健太、
菊池雄星、過去には
松坂大輔、
黒田博樹、
岩隈久志、
柏田貴史、
五十嵐亮太などがつけてきた。
日本で「18」といえばエース投手の番号だが、どうやら向こうではそういう概念はないようで、日本人投手たちがこぞってつけているのが不思議らしい。どちらかというと「18」は野手の番号で、代表的な選手としてテッド・クルーズースキー、
ビル・マドロック、ジェイソン・ケンドール、ジョニー・デイモンといったスラッガーの名前があげられていた。
日本プロ野球における背番号「18」の歴史を振り返ると、草創期からの大阪タイガース
若林忠志、東京セネタース
野口二郎、戦後の東急フライヤーズ
白木義一郎、
広島カープ
長谷川良平、松竹ロビンス
真田重男など、各球団のエース投手の名前が浮かぶ。しかし何と言っても「18」を日本のエース番号に押し上げた最大の要因は、読売
巨人軍のエース投手が代々受け継いできたからだと言われている。
中尾碩志、
藤田元司、
堀内恒夫、
桑田真澄、
杉内俊哉、そして現在の
菅野智之まで続いてきた。
ただし歴史をさらにさかのぼると、巨人軍の初代エース投手は、なんと言っても
沢村栄治である。
その背番号は「14」。
だが、この番号は日本球界第1号の永久欠番。後輩投手が受け継げないので日本のエース番号にはならなかった。しかしこれはこれで米国のジャッキー・ロビンソンの「42」同様、日本のプロ野球ファンにとっては存在感のある大きな番号だ。
しかし沢村の背番号は最初から「14」だったわけではない。
日本で野球ユニフォームの背番号採用の第1号は1931年の第8回選抜中等学校野球大会(現在の選抜高等学校野球大会)だが、戦前に使われたのはこの大会1回だけ。沢村が中等学校野球で活躍するのは33年からで、背番号はもうなかった。
沢村がはじめて背番号をつけたのは34年。全日本チームの一員として参加した日米野球だ。
静岡草薙球場で大リーグ選抜相手に9奪三振1失点と伝説の好投をみせるが、このときの沢村の背番号は、意外なことに1ケタの「8」だった。
全日本チームを母体に結成されたのが大日本東京野球倶楽部、現在の読売巨人軍である。
35年、チームは武者修行のため米国遠征に旅立つが、ユニフォームの背番号には漢字が採用された。米国の試合で観客に興味を持ってもらうためのアイデアだ。ユニフォームは日米野球の大リーグ選抜のデザインを参考に、玉澤運動具店が製作。当時の値段で1着50円。公務員の大卒初任給が70円ほどの時代。けっこうな高級品である。そして沢村の背番号は「十七」だった。
この遠征で大日本東京野球倶楽部は、ニックネームにジャイアンツを採用している。米国各地を転戦し帰国は7月。参加した
苅田久徳さんから聞いた話だが、しばらくすると、球団から呼び出しがあり、事務所に行くと胸に「GIANTS」とレターの付いた国内試合用のユニフォームが用意されていて、選手たちに配られたそうだ。沢村の背番号はこのユニフォームから「14」になった。(文=綱島理友)