1954年、南海に入団してプロ野球人生のスタートを切った野村克也。しかし、当初はテスト生だったため、周囲の誰も、ましてや本人も、のちにプロ野球史に残る名捕手、名将になるとは思ってもいなかっただろう。栄光の野球人生の陰にあった数々の困難。それを乗り越えて超一流へと駆け上がっていった日々を振り返っていこう。 
65年、打率、320、42本塁打、110打点で三冠王に輝いた
1年目の秋に下された非常な通告
甲子園出場の経験もない野村克也にとって、1954年は厳しい現実を知らされるプロ1年目のシーズンとなった。野村の母校、京都の府立峰山高は、野球の世界では無名校。スカウトの目に留まることもなく、スポーツ新聞の新人募集の広告を見て、南海入りを希望。同期には、立大進学を断念してプロ入りした皆川睦雄(睦男)、54年に26勝を挙げて新人王に輝いた宅和本司らスター候補がいた。
テスト生として入団した野村は、来る日も来る日もブルペンで投手のボールを受ける「裏方さん扱い」(野村)だったという。この年の出場機会は、わずか9試合。11打数無安打、0打点と、結果を出すことはできなかった。首脳陣にしてみれば興味を引く存在ではなかっただけに、必要以上のチャンスなど与えられるわけがない。
弱冠19歳の野村は、ここで腐らなかった。どうしたらプロで生き残れるか、寝る前に何度も何度も考えた。後の監督時代にも、選手に執ように言い聞かせたように、出た結論は「人は24時間を平等に与えられている。要はその時間を、どう使うかで結果が違う」だった。すぐに、グラウンドの練習以外の空いた時間での一心不乱の素振りに着手した。
1年目の秋、そんな野村に球団から非情な通告が下された。
「来年は契約しない」
あっさりと言い渡された言葉に、野村は必死に食い下がった。
「納得いきません。どうしてもと言うなら、南海電車に飛び込んで死にます」
有名な当時のやりとりを、野村は「あんなに一生懸命だったことは、それまでになかった」と、生前よく苦笑しながら話した。
「あのときに、『どんな苦しいことがあっても、俺はプロとして頑張り抜く』という決意ができた」と回顧している。
懸命な野村の姿に心を動かされたのか、それともわずらわしさを感じたのか。とにかく・・・