移動に次ぐ移動の超過酷なスケジュールを強いられた。ロッテは東京スタジアムを手放した1973年シーズンから、特定の本拠地を持たずに主催試合を行っていた。準本拠地は仙台市の県営宮城球場ではあったが、そこはホームではなく、ビジターのようなものだった……。 写真=BBM 週刊ベースボール 別冊冬桜号 よみがえる1970年代のプロ野球 EXTRA(2) パ・リーグ編
2022年12月27日発売より 
阪急とのプレーオフを制してリーグ優勝を決めたロッテ[1974年10月9日/県営宮城球場]。左から5人目が金田監督
ホームとビジターの逆転現象
1974年のロッテは金田正一監督の2年目。前期は2位で終わったものの、後期は優勝。阪急とのプレーオフも制し、日本シリーズに出場。中日を4勝2敗で沈めて日本一を飾った。
金田監督、選手にとっても思い出深いシーズンとなったが、この年を振り返るとき、日本一とともに彼らの記憶によみがえってくるのは旅から旅、超過酷なスケジュールだろう。主力選手だった有藤通世は「放浪の旅というかね。本当にきつかった。これがプロ野球の選手かと思う移動でしたから」と振り返る。
もっともそれは金田監督が就任した前年の73年から抱えていた問題だった。それまでロッテの本拠地は東京・南千住にあった東京スタジアムだったが、正式に閉鎖、取り壊しが決まり、本拠地球場を失っていた。主催試合は後楽園球場、神宮球場、川崎球場などを間借りして行われ、74年からは仙台の県営宮城球場が中心となった。それでもこの年、県営宮城球場での試合はわずか27試合。ホームゲームとはいえ、準本拠地扱いだった。
ロッテの球団事務所も合宿所も・・・