
監督として通算985勝1054敗の成績を残したフィル・ガーナー氏。2005年のアストロズ時代には、ナ・リーグ制覇に導いた
現役時代にオールスターに3度選出され、引退後も長年にわたりメジャーで監督を務めたフィル・ガーナー氏が4月11日、76歳で亡くなった。膵臓がんで闘病中だった。筆者にとって忘れられないのは、1999年シーズンである。ガーナーが率いたミルウォーキー・ブリュワーズで、
野茂英雄が見事な復活を遂げたからだ。
野茂は98年、ドジャースとメッツでプレーしたが、6勝12敗、防御率4.92と低迷。翌99年の春季キャンプ中にメッツを解雇された。開幕後、先発投手不足に陥っていたブリュワーズに拾われたものの、当初の評価は決して高くなかった。ガーナーは後にこう振り返っている。「正直、最初の評価は高くなかった。GMから『野茂はどうだ?』と電話があったとき、『4、5回はチャンスを与えるが、私が解雇したくなったらいつでも解雇できる条件で』と伝えたくらいだ」。
しかし、5月9日に遅いシーズン初登板を果たすと、野茂はいきなり5試合連続クオリティスタートを記録する。「ブルペンでは殿堂入りクラスのボールを投げるのに、マウンドに上がると結果が出ない投手は少なくない。だが野茂はその逆だった。試合で、しかもここぞという場面でベストのボールを投げられる。こういう投手はブリュワーズには何年もいなかった」。
ガーナーはその度胸と勝負強さを高く評価し、先発ローテーションの軸として重用。6月10日以降、野茂が登板した試合でチームは8勝1敗と大きく勝ち越した。ガーナーはシーズン終盤に解任されたが、筆者はその後、彼が住むヒュース
トンを訪れ、ホテルの喫茶店でインタビューする機会を得た。
翌2000年、ガーナーはタイガース監督に就任。FAとなった野茂もこれに呼応する形でタイガースと契約し、32試合で190イニングを投げた。この2年間で野茂は完全に復調し、01年にはレッドソックスでノーヒットノーランを達成、ア・リーグ奪三振王にも輝いた。さらに02年にはドジャースに復帰し、2年間で32勝を挙げるなど、“第二のピーク”を築いている。
ガーナーはブリュワーズ、タイガース、アストロズと3球団で計15シーズン指揮を執ったが、勝ち越しは4度にとどまった。それでも評価が高かったのは、選手一人ひとりにどう接すれば能力を最大限に引き出せるかを理解していたからだ。野茂についても、その特性を見抜いていた。
「復帰戦ではいい感触でマウンドを降りてもらおうと、90球台で交代させたが、不満そうだった。2試合目も同じだった。言葉には出さないが、表情にははっきり出る。だからその後は投げられるところまで任せた。その後、ヒデオが交代を早いと感じたのは1試合しかなかったと思う」
野茂のプライドの高さを理解したうえで、時には120球以上を投げさせるなど、信頼して起用した。現役時代は二塁手として活躍し、泥臭く粘り強いプレースタイルから「Scrap Iron(鉄くず)」の愛称が付いた。ピッツバーグ・パイレーツに在籍した1979年には打率.293、11本塁打、17盗塁を記録し、世界一に貢献した。
率直でタフ、それでいて公正、その姿勢は30年以上に及ぶMLBでのキャリアを通じて一貫していた。ゆえに多くの人に愛され、野茂のキャリアとも短いながら確かに交錯していたのである。
文=奥田秀樹 写真=Getty Images