昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。権藤博さんのインタビュー2回目です。今回は「中日で現役引退」から「近鉄コーチ時代」までの思い出を伺いました。 文=落合修一 
権藤博
全盛期の幻影を追った入団3年目以降
──1年目の1961年は429回1/3を投げて35勝19敗。しかし2年目のキャンプでは肩が痛かったと。その話の続きを聞かせてください。
権藤 2年目は5月くらいに肩が回るようになったんですよ。その年は30勝(17敗)。でも、3年目から自分のピッチングができなくなってきましたね。あのときに今の私が投手コーチだったらフォームを変えさせるんですが、2年連続30勝もしたから良かったときのフォームにこだわりがあったんですよ。過去を追い求め過ぎました。
──全盛期の権藤さんの投球を知らない世代に説明するならば、どういう投手だったのですか。
権藤 ジャンプして放っていました。稲尾(
稲尾和久=西鉄)さんの真似をしたんですが、稲尾さんは一旦上がって、沈んでからスリークオーター気味に腕が出てくるので無理がなかったのですが、私の場合は上がって下がってもう1回ジャンプして上からたたきつけるように投げていました。バレーボールで言うスパイクみたいに、バネを使って上から下へという。球種はストレートとドロップ(大きなカーブ)だけ。稲尾さんはいくらでも投げられるフォームでしたけど、私はやっぱり無理があって、投手として短命だったのもしょうがないですね。3年目になったら、もうジャンプする元気がなくなるんです。できないことはないけど、いい球が行かない。最初の2年間は通用したのですが、3年目にへばりが来たのはそこですね。もう少し無理のないスリークオーターから投げていたら、違う結果になっていたでしょう。30勝はできなくても、20勝くらいをもう少し続けていたかもしれない。
──例えば、10何勝とか20勝前後を10年以上続けて通算200勝ぐらいすれば良かったとか考えますか。
権藤 プロに入ってくるのに、200勝しようとか、考えていないですよ。「負けられるか!」としか思わずに、やってみたらやれたもんですからそのままの勢いでやっただけで、「これくらいでつぶれるわけない」とも思っていたし、行けるところまで行ってやれという玉砕精神でしたよね。
──当時の中日は
濃人渉監督(上写真の左)、石本秀一ヘッドコーチ、
近藤貞雄投手コーチですね。つぶれるまで投げさせようという起用だったのですか。
権藤 近藤さんは「無理してはいかん」と分かっている人でしたけど、監督は「命までは取られやせん!」という人でした。
──濃人監督は「行けるところまで行け」と?
権藤 「行けるところまで」でもないです。「行け!」です。
──今でも中日の背番号20はエースナンバーとされていますが、
杉下茂さんから引き継いだときは「エース継承」を意識しましたか。
権藤 私は社会人時代から20番だったんですよ。プロ入りしたタイミングで杉下さんが兼任監督から大毎に兼任コーチとして移籍したから20番が空いて、それで私が20番を着けたんですけど・・・
この続きはプレミアムサービス
登録でご覧になれます。
まずは体験!登録後7日間無料
登録すると、2万本以上のすべての特集・インタビュー・コラムが読み放題となります。
登録済みの方はこちらからログイン