昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。木樽正明さん編の最終回は最後が少しバタバタしましたが、1974年の優勝の年と現役引退のことを中心にお聞きしました。 文=落合修一 
木樽正明
腰痛に悩まされ、カネやんとの「確執」
──
前回からの続きです。1970年にリーグ優勝して、日本シリーズで
巨人と対戦。木樽さんは第1戦(後楽園)で同期入団の
堀内恒夫さんと投げ合いました。
木樽 2人とも延長11回を完投したんだけど、僕が11回裏に先頭打者の
黒江透修さんにサヨナラ本塁打を打たれ、0対1で負けました。今だから言いますけど、あのとき巨人は
ロッテの捕手が出すサインを解読して、バックスクリーンの横にいた人が次はストレートだ、次はカーブだと手振りで伝えていたらしい。
──ええ!
木樽 のちに私が巨人の一員になったとき、その合図をしていた人から聞きました。当時はそういうことがルール違反ではなかったとはいえ、そこまでして勝ちたいかと驚いたし、そういう面でも巨人は先を行っていましたね。
──それなのに実質10イニングを1失点だけに抑えた木樽さんもすごいですよ(笑)。
木樽 まあ、あの優勝した70年を中心とした3年間くらいが、私のプロ野球選手としてのピークでしたね。
──70年は21勝10敗でMVP、翌71年は24勝8敗で最多勝。その先は、引退の原因となった腰痛に悩まされたのですか。
木樽 ずっと腰痛だから。プロ2年目からはもう、腰痛が友達。今だって痛いですよ。
──73年に就任した
金田正一監督からは、こうやって治療しろとかアドバイスはあったのですか。
木樽 ない。ただ「走れ。走れば治る」。それで治るんだったら、とっくに治っていますよ(笑)。金田さんに教わったこと、勉強になったことは多いですが、腰が重くて走るのを自重しても「怠けるな!」ですから、一時期は確執がありましたよ。
──でも、金田さんの家に泊まっていた時期もあったんですよね。
木樽 それは74年の春の静岡・草薙球場のオープン戦で
上田武司さん(巨人)の打球を顔面に当て、骨折したんです。そしたら、金田さんが当時の巨人の専属だった吉田接骨院に診てもらえば早く治るだろうと、救急車で・・・
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