昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。太田幸司さん編の2回目は、高校野球史上最も有名な(?)1969年夏の甲子園決勝再試合の2日間のことを中心にお届けします。太田さんは国民的な人気者になりました。 文=落合修一 
太田幸司
キャーキャー騒がれても浮つかなかった
──
前号からの続きです。三沢高2年夏に甲子園初出場、3年春のセンバツにも出て、いよいよ最後の夏を迎えます。
太田 その前に、春の東北大会ですよ。センバツで浪商高に惜敗して全国で通用する自信をつけ、春の青森の県大会で優勝。「東北では敵なし」と思ってブイブイ言わせていたところに東北大会初戦で、宮城3位の仙台工高に完封負けを喫しました。
──天狗の鼻を折られましたか。
太田 夏に向けて気持ちを入れ直したので、逆に良かったですよ。夏は北奥羽地区(当時は青森と岩手の上位2校ずつから1校が甲子園出場)代表決定戦で、決勝は同じ青森の弘前実高と盛岡市営球場で対戦し、先制されたのですが逆転勝利。うれしいよりも、ホッとしましたね。1年前は甲子園出場だけで大喜びだったのが、「さあ、ここからだ」と意識が変わっていました。1年前の夏の甲子園、春のセンバツはいずれも2回戦で敗退していたので、今度は2つ勝って、2回戦の壁を破ろう。まずはそこが目標でした。
──3季連続の甲子園で、大会前から期待されていたのですか。
太田 優勝候補ではなかったですが三沢高はそこそこ強いと思われていて、僕自身も「東の太田、西の西井(
西井哲夫=宮崎商高、のち
ヤクルトほか)」なんて言われていました。
──太田さんは大会前から有名人だったのですね。
太田 最初のころは野球ファンや専門家が注目する感じだったのが、夏の甲子園で勝つごとに女の子のファンが増えていった感覚ですね。試合に勝つたびに、甲子園球場から宿舎に帰るバスを取り囲む女の子の列が二重、三重となり、宿舎に帰っても同様でした。キャーキャー言われて、なかなか前に進めない状態。僕はテレビや新聞を見ていなかったので自分がどのように報道されているのか分からなかったのですが、自分を取り巻く状況の変化に気付きました。宿舎にいても・・・
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