昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。サウスポー・新浦壽夫さんの最終回は、巨人から韓国・三星ライオンズに移籍し、大洋、ダイエー、ヤクルトでプレーした現役生活後半のお話を中心に伺いました。 文=落合修一 
新浦壽夫
韓国プロ野球では3年間で54勝
──1983年のシーズン終了後、
長嶋茂雄さんから「韓国プロ野球に行け」と電話があったという
前回の話からの続きです。
新浦 韓国プロ野球が82年に創設され、2年目が終わったときでした。長嶋さんと三星(サムソン)の会長が知り合いで相談されたというのもあったみたいです。
──新浦さんは日本で生まれ育って、日本語しか話せないわけじゃないですか。韓国プロ野球でプレーすることに不安はなかったですか。
新浦 不安だらけでしたよ。でも、長嶋さんから「巨人軍の野球を教えてやれ」と言われれば、「はい」と答えるしかありません。私の持っている投球技術を伝えたいと思いました。だから3年間だけと期限を設けて契約したんです。
──大活躍でしたよね。入団した三星ライオンズでは84年が16勝10敗3セーブ、85年は25勝6敗で最多勝、86年が13勝4敗。防御率は3年とも2点台と抜群の成績でした。
新浦 1年目の最初は打たれたのですが、このままではダメだと思って投球フォームなどをつくり直しましたね。
──そういう練習のやり方などをほかの選手にも伝えたわけですか。
新浦 私は何も言いません。見て、何かを感じてくれという姿勢でした。影響を与えるまで、8年くらいかかりました。
──8年ですか。
新浦 僕が韓国に行って8年後に、「あのときにあなたがやっていたことの意味が最近分かりました」と言われましたから。
──新浦さんがいたころの韓国プロ野球は、どのくらいのレベルだったのですか。
新浦 今考えると、当時は日本のファームよりも弱かったんじゃないですかね。あのころはそんなこと、言えませんでしたけど。
──しかし今は、WBCを見ていても韓国野球のレベルは上がっているようです。黎明期に新浦さんが与えた影響は大きかったのでは。
新浦 そう思われていないでしょうね。でも、
福士敬章(元
広島ほか)はシーズン30勝している(83年)。僕は25勝(85年)。韓国の選手とはそれだけ実力差があったわけです。こんなことがありました・・・
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