昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。今回からは近鉄、巨人、横浜で活躍した阿波野秀幸さんの登場です。まずはアマチュア時代のことからお聞きしたら、プロに入るところで初回の誌面が尽きました。 文=落合修一 
阿波野秀幸
愛甲猛さんに「圧」を感じた高校時代
──野球を始めたきっかけから教えてください。
阿波野 父親が地元の少年野球のチームでコーチをやっていた影響で、僕も小4くらいから自然と始めていました。横浜市立鶴ケ峯中で野球部に入ったのですが、1学年14クラスくらいあって生徒数が多かったんです。グラウンドにもプレハブの校舎が建設されて野球どころでなく、野球部の練習は走って、腹筋、背筋をして、キャッチボールをして終わり、みたいな。ただ、3年の最後の大会で投げたとき、三振をたくさん取って目に留まったみたいですね。
──私立の強豪高校の関係者の目に、ですか。
阿波野 でも、甲子園を目指す強豪校でやる自信はなかったので、少年野球だったときの監督の母校である横浜市立桜丘高に行くことにして、塾に通って受験勉強しました。
──その高校は、野球のレベルはどうだったのですか。
阿波野 「公立の雄」と言われていました。神奈川県は東海大相模、横浜、武相、桐蔭学園、鎌倉学園と私立高が強いんです。そんな中で、公立勢としては「Y高」こと横浜商に次ぐ評価で、健闘して県ベスト8というレベルでしたね。僕は1年秋(1980年)の新チームからエースでしたけど、1年夏の甲子園で横浜高が優勝して、「オール神奈川」という選抜チームを編成して海外遠征していたんですよ。その「オール神奈川」が保土ケ谷球場で練習をしたときに、そのお手伝いで近所の桜丘高から野球部員が駆り出されました。近くで見た甲子園優勝投手の
愛甲猛さん(のち
ロッテ)はすごかったです。
──野球の実力もすごかったでしょうけど……。
阿波野 おっかなかったです(笑)。トスバッティングの練習相手に指名されました・・・
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