昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。元中日ほかの広野功さんの2回目は、プロ3年目に西鉄ライオンズへトレードされたお話、そして西鉄から巨人に移籍したお話を中心に伺いました。 文=落合修一 広野功
西鉄ライオンズの暗黒時代を経験
──東京六大学の通算本塁打タイ記録(当時)に並んで1966年に中日入りした広野さんは、1年目が13本塁打、2年目は19本塁打と順調にプロの道を歩み始めたのに、なぜ3年目の68年に西鉄へトレードになったのですか。
広野 僕は2年目に中日の選手会の副会長になりました。オフに秋季練習そっちのけで選手会ゴルフの仕切りの準備をして、そのコンペが終わったところで球団から電話が来て中日ビルの裏にあった料亭に呼び出されました。行ったらオーナー(小山武夫)が来ている。何だろうと思ったら、「実は、トレードの話がある。西鉄の
田中勉をどうしても欲しい。西鉄があなたを指名してきた。この話を断ると田中勉は巨人へ行く。そうなったら巨人の一人勝ちになるから、セ・リーグ全体のことを考えて涙をのんで西鉄に行ってほしい」と。
──結果的に、田中勉投手が中日に来ても巨人の一人勝ちでしたね。
広野 僕は泣いて「行きたくない。中日に骨を埋める覚悟で入団した。2、3日、考える時間をください」と答えました。しかし、その夜、東海テレビで「広野、トレード」とニュースが流れ、僕は1週間ほどホテルに雲隠れしました。その間に中日ファンの間で僕をトレードに出すなという署名運動が名古屋駅前で起こったのです。お世話になっている支援者の方にも相談して、悩みましたがトレードを受け入れました。
──福岡はどうでしたか。
広野 九州には縁もゆかりもなかったのですが、1人だけ知人がいました。野見山博さんという早大から日鉄二瀬に行って都市対抗で久慈賞を獲った方が二瀬窯業という会社の社長をしていて面識があったので訪ねたら、早大の石井藤吉郎監督と同期で「慶大の広野のことはよう聞いとる。よう福岡に来た」と大歓迎してくれました。それで野見山さんと親しくなり、家に出入りするようになりました。野見山さんはプロ経験こそありませんが九州球界で顔が広く、
稲尾和久さんとも親しかったんです。
──68年の西鉄ライオンズはどういうチームでしたか。
広野 西鉄は大打者・
大下弘さんが・・・
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