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レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し

広野功(中日ほか)インタビュー<3>最後の試合出場は1974年10月14日、後楽園 「華やかに引退する長嶋さんの陰で、僕もひっそり……」

 

昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。元中日ほかの広野功さんの3回目は、巨人から中日に復帰し、現役引退前後のお話まで。ネタが豊富で3回では終わらず、延長戦が次号に続きます。
文=落合修一

広野功


自身3本目の逆転満塁本塁打


──中日時代の1966年に巨人・堀内恒夫投手から逆転サヨナラ満塁本塁打、巨人移籍後の71年に代打逆転サヨナラ満塁本塁打を打った話をうかがいましたが、73年4月27日の古巣・中日戦(中日)でも代打逆転満塁本塁打を打ったんですよね。

広野 その前日まで後楽園で阪神との3連戦があって名古屋へは当日移動だったのですが、国鉄のストライキで新幹線が動かずにバスで何時間もかけて名古屋に移動したのです。途中、渋滞などもあって宿舎に着いたのが19時くらい。試合は中止だろうと思ったのですが、お客さんが待っているから遅れてもいいから試合をしてほしいとなりました(編注・記録によるとこの試合の開始時刻は19時56分)。

──国鉄のスト、昔はよくあったみたいですね。昭和です。

広野 中日のリリーフの星野仙一から僕が6回に代打逆転満塁本塁打を打ち、最終的には13対6で巨人が勝ちました。すると、監督の川上(川上哲治)さんは翌日、僕をONの次のスタメン五番に使ってくれたのです。

──71年に代打逆転サヨナラ満塁本塁打を打ったときと同じですね。

広野 そのときは平松政次(大洋)から死球を右手の甲に食らって骨折しました。今度の投手は三沢淳(中日)です。元同僚の捕手の木俣(木俣達彦)が投球前に「広野さん、気をつけてください」と言い、初球が脇腹にまともに当たりました。のちに肋骨骨折と判明。また離脱です。

──1回目のときは相手チームが違った(本塁打はヤクルト戦)ので偶然でしょうけど、2回目は星野さんが絡んでいますからね。

広野 僕の野球人生、天国のあとに地獄に落とされる繰り返しでした。その年、巨人は9連覇を達成して優勝旅行でハワイに行ったのですが、そこで川上さんから「左の外野手は淡口(淡口憲治)、萩原(萩原康弘)、柳田(柳田俊郎)が育ってきたから来年はお前を使わない。どうする? 就職するなら大企業を紹介するよ」と言われ、「巨人で終わったほうがいいと言ってくれる人もいますが、僕は中日で始まったので、中日でプロ野球人生を終えたいのです」と答えたら、「分かった」。そもそも、67年オフに中日から西鉄に移籍したときに中日と「いずれ帰ってくる」と約束していましたから。そうしてトレードが決まりました。当初は無償トレードという話だったのが、川上さんが金銭トレードという話に変えてくれ、そのお金(200万円)を餞別として僕に渡すように決めてくれました。川上さんにお礼を言いに行ったら、「俺の気持ちだよ。中日でも頑張れよ」と言われ、感動しました。

──自分のお金ではないのに。

広野 74年に復帰した中日では大した仕事はできなかったのですが・・・

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