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レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し

山内孝徳(南海・ダイエー)インタビュー<2>防御率が4点台ばかりだった理由「大阪球場で内野ゴロを打たせても、イレギュラーしてアウトを取れない」

 

昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。南海末期から福岡ダイエー初期にかけてのホークスのエース、山内孝徳さんの2回目は、南海に入団したころのお話です。
文=落合修一

山内孝徳


南海時代の8年間で2ケタ勝利が7回


──1979年秋のドラフトで南海から指名され、81年のシーズンから入団しました。

山内 すでに南海は人気が落ちていてお客さんが入らないとは聞いていたのですが、1年目の春季キャンプが終わってオープン戦で初めて大阪球場に行ったとき、ものすごい数のお客さんが正面玄関から入ってきて、ずらずらと外野席のほうに歩いていくのを見たんですよ。これはすごい人気だなと思いながら球場入りしたのですが、試合が始まってもスタンドに人がいない。「さっきのお客さんたちはどうしたんですか」とほかの選手に聞いたら、「あれは馬券を買いに来た人たちだぞ」と。大阪球場には場外馬券売り場が併設されていたんですね。それが南海ホークスの第一印象です。

──チームも強くなかった。

山内 門田博光さん、新井宏昌さん、片平晋作さんといいバッターがいたのですが、みんな左じゃないですか。相手チームは左投手ばかりぶつけてくる。そうなると打線が打たないんですよ。まだ社会人の電電九州にいたときのほうが、打線の援護に恵まれていましたね。

──山内さんの南海時代の8年間は2ケタ勝利が7回あった一方で、勝ち越したのは2回だけ。すべての年で2ケタ敗戦。リーグ最多敗戦が3回あり、3年目以降は防御率4点台。悪いことばかり言ってすみません。

山内 3連戦の頭に投げることが多かったのですが、相手チームも左のエースをぶつけてきたので苦しかったですね。しかも、キャッチャーがドカベン(香川伸行)でしょう。太っていたからしゃがみきれなくて、投手へのサインが股の間から丸見えなんですよ。

──なるほど。

山内 昔は「のぞき」が・・・

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