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レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し

山内孝徳(南海・ダイエー)インタビュー<4>福岡ダイエーの平和台初戦、気迫の完投勝利も「あれで、燃え尽きた」

 

昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。南海末期から福岡ダイエー初期にかけてのホークスのエース・山内孝徳さんの最終回は、福岡ダイエーで引退するまでのお話です。
文=落合修一

山内孝徳


福岡ダイエー元年、開幕投手&ホーム開幕


──南海は1989年からダイエーとなり、福岡に移転しました。

山内 待遇が違いました。南海ではユニフォームだけは球団がクリーニングに出してくれましたが、それ以外の洗濯は自分でやっていたんですよ。8年間そういう環境だったのに、ダイエーではガラッと変わりました。洗濯はもちろん、スーパーマーケットの会社だから、球場の飲み物も全部タダになりました。

──年俸は上がりましたか。

山内 南海最後の年(88年)は、3000万円しかもらっていなかったんですよ。で、会社が南海からダイエーに代わってからの契約更改では「この実績で3000万円とはあり得ないね。山内君は5000万円にしよう」と言われました。今だから言えますけど、「はあ、やっぱりお金を持っている会社は違うな」と感動しました。そのときはダイエー球団に男気を感じ、「命を懸けて投げます」と約束しました。

──そして、89年のダイエーとしての開幕戦が、4月8日の日本ハム戦(東京ドーム)。

山内 僕が先発し、4安打完投だったのですが、結果的に2ラン本塁打を(中島輝士に)浴びてサヨナラ負けしたんですよ。監督の杉浦(杉浦忠)さんに申し訳なくて、謝りました。ところが杉浦さんは「こちらこそ、打てなくて、エラーも出て、申し訳なかった」と言ってくれました。

──紳士です。

山内 東京ドームの開幕3連戦、大阪での近鉄3連戦を挟んで、今度は開幕からちょうど1週間後(4月15日)の平和台球場が・・・

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