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レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し

山内和宏(南海ほか)インタビュー<1>社会人・リッカーで台頭、ドラフト1位候補に「12球団全部OKでした」

 

昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。前回までの山内孝徳さんに続くのは、南海・ダイエーでチームメートだった山内和宏さん。初回はプロ入り前の「フリーター時代」のお話を中心にうかがいました。
文=落合修一

山内和宏


遠鉄ストアの納入業者が変えた人生


──静岡県のお生まれなのですね。

山内 浜北(現在は浜松市浜名区)という町で生まれ、父親はもともと、遠州鉄道の車掌をしていました。それから遠鉄が経営するボウリング場の支配人に異動し、最後はスーパーの店長になりました。

──遠鉄ストアですか。

山内 そうです。その父親が野球好きで、僕を野球選手にしたくて名前を山内和弘さん(元毎日ほか、のち山内一弘)と同じにしたんですよ。漢字は変えたのですが。

──野球を始めたきっかけは。

山内 小4のときにソフトボールのチームに入ったのが最初でした。僕らの時代は少年野球のチームが地元になかったんです。長嶋茂雄さん(巨人)にあこがれ、三塁を守っていました。そこで野球の楽しさを知り、浜北北部中では野球部に入りました。試合に出るようになったのは3年になってからでしたが投手ではなく、二番打者でファーストだったかな。まったく目立つ選手ではなかったですよ。高校も地元の公立校である浜名高を受験しました。そのときは普通に大学に行って普通に就職できればいいな、くらいにしか将来のことを考えていませんでした。

──そこでも野球部に。

山内 はい。最初は野手でした。

──プロ野球からドラフト1位で指名されるような投手に、いつなるんですか(笑)。

山内 もうちょっと待ってください(笑)。投手を始めたのは、1年秋の新チームになったあたりからです。肩が強かったので監督から「ピッチャーをやってみるか」と言われ、初めてなのに結構投げられたんですよ。1年上のエースもいたのですが、僕が2年の春になるころには試合では僕がほとんど投げるようになり、3年になったらそこそこ県内で知られるようになりました。

──夏はどうでしたか。

山内 2年のときは2回戦で島田工高に1対2で負け。3年のときはベスト16まで行ったのですが・・・

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