昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。今回からは元ロッテほかでしぶとい打撃を披露した南渕時高さん。まずは、プロ入り前の天理高、青学大、東芝時代のお話をうかがいました。 文=落合修一 
南渕時高
都会生活を楽しんだ青学大時代
──野球を始めたきっかけは。
南渕 東大阪市の花園ラグビー場の近くで生まれ、小4で地元のソフトボールのチームに入りました。中学生になってボーイズ・リーグで硬式野球を始めたのですが、父親が中学の体育教師で厳しく、月曜から金曜までは勉強しなさい、野球をするのは土日だけ、スポーツをするなら絶対にやめるなという約束でした。ポジションは最初から遊撃手です。
──そこで頭角を現したわけですね。
南渕 高校に進むときは当時の大阪に「私学7強」というのがあり、僕は浪商高(現大体大浪商高)の
牛島和彦さん(のち
中日ほか)のファンだったのですが、2学年上の
藤本博史さんや
川本和宏さん(いずれものち南海)がいた奈良の天理高が、
愛甲猛さん(のちロッテほか)のいた横浜高と対戦した夏の甲子園準決勝(1980年)を見て、天理高の紫色のユニフォームにあこがれました。それで天理高を選んだのです。親元を離れて寮生活を経験したかったという理由もありました。
──デリケートな質問かもしれませんが、宗教法人系の学校ですよね。
南渕 信者じゃなくても入学できるし、天理教を信仰するのもしないのも自由なんです。強制もされません。
──寮生活はどうでしたか。
南渕 自分のお金を寮監さんに預け、100円の缶ジュースを買うのも書類に書いて申請して許可をもらい、引き出す方式でしたね。きっちりとしていました。先輩との上下関係もありましたけど、理不尽な思いをした記憶はないです。人に優しくして徳を積みなさいという教えの学校だったので、先輩も優しかったです。高校時代は楽しかったですよ。
──高校野球の思い出は?
南渕 1年秋の新チームから遊撃手のレギュラーになり、三番打者として3年夏(83年)の甲子園に出ました。1回戦で岐阜第一高に0対7で敗れましたが・・・
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