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レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し

齊藤明雄(元大洋・横浜)インタビュー<2>遠藤一彦投手はライバルではない「同志でした」

 

昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。大洋・横浜で先発、リリーフと大車輪の活躍だった齊藤明雄さんの2回目は、プロへと入団した直後のお話です。
文=落合修一

齊藤明雄[左]と打席は王


監督の進言を“拒否”した新人


──1976年秋のドラフトで大洋から1位指名され、入団。

齊藤 川崎球場の最後の年です。球場は暗かったですね。グラウンドは狭いし、ロッカーも「これ、本当にプロが使うの?」と思うほどでした。ボストンバッグを床に置いたら人が通れない。お風呂も3人くらいしか同時に入れませんでした。

──大洋球団としては、ドラフト1位の齊藤さんに相当期待したのではないですか。

齊藤 阪急、近鉄もそうでしたが、大学時代から大洋のスカウトの方は熱心に見に来られていましたね。

──おそらく、平松政次投手の後継のエースになってくれと。

齊藤 そうだと思います。僕は大洋の大エースだった秋山登さんが着けていた背番号17をもらいましたから。しかし、本音は14が欲しかったんです。関大から阪急に行った山口高志さんにあこがれていたので。大洋にも「14が欲しい」と言ったのですが、「もう17に決まっているからダメだ」と断られました。秋山さんの番号は重いなあと思ったのを覚えていますね。

──実際に入団して、大洋はどういうチームでしたか。

齊藤 そうですね……。最初は別当薫監督だったんですよ。別当さんはコーヒーと麻雀とゴルフが好きな、オシャレでダンディーな人でした。お酒を飲む選手のことを好きではない、とも聞きました。だからほかの選手から「酒を飲むなら注意しろよ」と言われたことがあります。別当さんには3年間お世話になりましたけど、別当さんが指導して、選手がそのとおりにできればいいけど、できないと飽きちゃうタイプの監督でしたね。途中まではいいけど、できないことがあると見限られる。僕は一度、投げ方を直せと言われたことがあります。僕はもともとアーム式の投げ方だったのですが、もう少しスナップを使えと言われました。「フォームを変えて今までのボールの威力がなくなったらどうなりますか?」と尋ねたら「そうなったら、お前は終わりだ」という答えだったので、「だったら、変えません」と拒否しました。

──別当さんは元打者なのに、投手に対してそこまで踏み込んだ技術指導をしたのですか。

齊藤 打者の目線で、そう思ったのでしょうね。僕が入団して最初の春季キャンプの前、自主トレのときでした。

──新人だった齊藤さんは、よく監督の指導を拒否しましたね。

齊藤 つぶれるくらいなら・・・

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