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レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し

鈴木孝政(元中日)インタビュー<1>在京球団志望も、中日・近藤貞雄コーチが来ると「親父は簡単に口説かれた」

 

昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。今回からは中日ドラゴンズのエースだった鈴木孝政さん。初回は、プロ入り前の成東高時代のお話を中心にお聞きしました。
文=落合修一

鈴木孝政


想い出の九十九里浜


──生まれは千葉県なんですね。

鈴木 沼村(現山武市)で生まれました。九十九里浜まで500メートルくらいで、夜は波の音が聞こえました。家は商売をやっていて、兄貴と俺はそこを継ぐというレールを親父が敷いていました。何もなかったので、子どものころの遊びは野球か釣りくらい。あとはそのへんの畑のスイカを食べるか(笑)。夜中の海にカンテラを持ってウナギの稚魚を獲りにいったこともあります。九十九里浜は引き潮になると砂浜が良いグラウンドになるので、仲間を集めて三角ベースです。蓮沼中では野球部に入って、初めてユニフォームを着て、ちゃんと9人で野球をやりました。

──最初から投手だったのですか。

鈴木 三塁手です。「四番・サード・長嶋(長嶋茂雄、当時巨人)」にあこがれていたから、三塁しか守りたくなかったですね。打撃は得意でした。

──高校進学はどのように。

鈴木 親父は商業高校で簿記を習えと言うんです。そのつもりだったのですが、兄貴は野球をやめて商売を継いでいたので「お前は成東高校に行って野球を続けろよ」と言ってくれ、その一言で気持ちが変わりました。地元の名門・成東高は野球が強く、歴史と伝統のある進学校です。中学の担任は「点数が心配だから滑り止めで私立も受けろ」と言ったのですが、親父は「私立に行くなら中卒で働け」。だから、中3の夏以降は猛勉強しました。努力すればするほど学力が上がったのが自分で分かって、勉強が面白かったですよ。

──成東高に合格したわけですね。

鈴木 うれしかったですね。生まれて初めて、努力が報われました。成東高の野球部に入ったのは良かったのですが、練習はキツくて、今度はやめたくなった(笑)。打撃を評価され、1年春からベンチ入りしました。

──いつから投手になったのですか。

鈴木 1年の6月くらいかな。三塁から良いボールを放っていたから投手をやってみろと言われ、やってみたら硬球が肌に合ったんでしょうね。それからは投手に専念して・・・

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