昭和世代のレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。オリックスほかで守備の名手として輝きを放った本西厚博さんの3回目は、オリックス・ブルーウェーブ時代のお話を伺いました。 文=落合修一 
本西厚博
イチローの飛躍は土井監督のおかげ
──オリックス時代の話の続きです。1992年に高卒ルーキー・
鈴木一朗選手が入団してきました。のちのイチロー選手です。第一印象はいかがでしたか。
本西 守備については体が硬いし、コントロールも悪くて外野からの返球はバラバラ。ただ、ミートはうまくて打つことだけはすごいなと最初から思っていました。彼にとって、入団したときの監督が土井(
土井正三)さんで良かったと思いますね。土井さんじゃなかったら振り子打法も生まれていないですし、今のイチローはなかったかもしれない。
──土井監督とイチロー選手は合わなかったという見方もされていましたが、それは違うと。
本西 イチローの2年目、93年のオリックス一軍打撃コーチは
小川亨さん。土井さんも小川さんも、イチローの打撃センスが素晴らしいことは分かっていました。当時のイチローの打撃フォームはスタンスが広くて速い真っすぐに詰まっていたので、そのフォームを変えようかという提案を土井さんと小川さんがしたときに、イチローは「自分はこのスタイルで行きます」とかたくなに拒否したんですよ。土井さんと小川さんは「それだったら、今は一軍ではちょっとなあ」ということでイチローをファームに行かせ、そこで生まれたのが振り子打法だったのです。土井さんや小川さんじゃなかったら、そのまま一軍で打たせて結果を残せなかったかもしれない。イチローがブレークしたあとで「あの才能を二軍に落とした」と土井さんが世間でたたかれていましたけど、私はあの期間がなかったら振り子打法は生まれていなかったし、その後のイチローの活躍はなかったと思いますね。
──本西さんが若いときに
簑田浩二さんの守備を間近で見て学んだように、イチロー選手、同期入団の
田口壮選手は本西さんの守備を見て成長したわけですか。
本西 と、思いますね。私がその2人の間のセンターを守っていたときは私が主導権を持って「ここまではお前」と指示していました。そのほうが思い切ったスタートを切れますからね。私がベンチのときはセンターを守る田口やイチローがその役割を果たし、ベンチに帰ってきてから「あの指示はどうでしたか」と聞かれ、「いいんじゃないか」とか「ちょっと違うんじゃないか」と答えていました。キャンプでは2対1の特守もしました。彼ら2人と私とで・・・
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