昭和生まれのレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。「平成の大投手」こと、巨人のエースだった斎藤雅樹さんの3回目ですが、まだ20勝する前の若手時代のお話です…… 文=落合修一 
斎藤雅樹
55号の新記録を狙うバースと対戦
──1984年の開幕戦で一軍デビューした斎藤さんは実績を残すまで、「巨人のドラフト1位」という重圧に苦しみませんでしたか。
斎藤 あまり感じませんでしたね。結果を残す前でも、マスコミにたたかれた記憶はないです。1年上の槙さん(
槙原寛己)や1年下の水野(
水野雄仁)のほうが目立っていたからなのかな。
──その人たちへのライバル意識は。
斎藤 僕は、入団したときから「槙原を目標にしろ」と周囲の人たちに言われていました。その時点で槙さんは150キロを投げているわけです。あまりにも違い過ぎる(笑)。あれだけ投げられたらいいのにな、うらやましいなとは思っていましたが、ライバルだなんて、そんな……。僕は1年目(83年)に一度も一軍で投げられなかったのに、2年目の開幕ベンチに入った時点で「すごいな」と自分で思っていました。我ながら、よくやったなと(同年は4勝0敗)。
──翌85年は、12勝8敗7セーブ。
斎藤 84年12月の自主トレでバスケットボールをやって膝を痛めたんですよ。それからオフに入り、特に治療もせずに休み、1月の合同自主トレで集合したら治っていなかった。だから一軍のグアムキャンプもメンバーから外れ、二軍で大事にされながら練習していたら一軍が日本に帰ってきたころには治っていて、合流しました。そこから頑張って、その年はガンガン投げました。ローテーションの一員ではなく、空いているところで先発、先発しないときはリリーフという使われ方でしたが初めて1年間一軍で過ごし、自信になりましたね。
──85年で印象に残ることは。
斎藤 阪神が優勝した年ですよ。打線がすごかった。8月の後楽園の3連戦(13~15日)で僕が1勝1セーブを挙げて巨人は3連勝したのですが、9月に引き離されました。僕はその年のシーズン最終戦である阪神戦(後楽園=10月24日)に先発したんです。というのも、その時点で防御率3位(2.83)だった僕は、8回1/3を自責点0に抑えれば(
中日・
小松辰雄、
広島・
川端順を抜いて)トップになれたのです。
──ところが、相手は猛打の阪神。
斎藤 あちらもシーズン最終戦。バースがそこまで54本塁打を打っていて・・・
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