昭和生まれのレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。近鉄ほかで活躍した佐野慈紀さんの最終回は、近鉄から中日へトレード移籍して以降のお話を伺いました。 文=落合修一 
佐野慈紀
中日ドラゴンズは“戦う集団”
──2000年に、トレードで中日に移籍しました。
佐野 トミー・ジョン手術から復帰した1999年は不本意な成績だった(3勝8敗1セーブ、防御率5.47)ので、環境を変えないといけないなと自分でも思っていました。梨田(
梨田昌孝)さんが監督になられたので、構想の中に入っていないだろうなというのも感じていたところで、トレードが決まったからには最後にもう一度、中日であがいてやろうとそのときは思いましたね。
──9年間過ごした近鉄を離れるのは寂しかったですか。
佐野 いや、当時はフロントに対してすごく不信感を持っていました。97年オフにトミー・ジョン手術を受けたときに「分かった。その代わりに年俸を下げるぞ」と足高(足高圭亮)球団代表に言われ、大幅ダウンを受け入れたんです。しかし、「これ以上は下げない」とも言われたので「口約束ではなく書面にしてくれ」と要求したら、「俺とお前の仲やないか」と押し返された。それで98年が終わって契約交渉になったら、さらに大幅ダウンだったんですよ。
──約束を反故(ほご)にされた。
佐野 もうやめるって言いました。
──引退を?
佐野 はい。「俺とお前の仲やないか」と言っていたのに、約束を破るのかと。モチベーションを保てないじゃないですか。「じゃあやめます。自由契約にしてください」と言ったら、「いや、ちょっと考え直せ」と。だけど「年俸を下げるのはオーナーの決定だから変えられない」と言われたので、僕は出来高契約を提案したんです。
──当時、外国人選手以外で珍しかったですよね。
佐野 近鉄では初めてだったと思います。団野村さんに相談して、アメリカのインセンティブ契約のやり方を全部聞いて、自分で作って紙に書いて球団に持っていったんです。試合数、イニング、防御率、勝利数……。10項目ぐらい。
──その場で認められた?
佐野 「こんなの作ってきたのか」と驚かれ、「検討させてくれ」と持ち帰られたんです。そしたら・・・
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