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レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し

川又米利(元中日)インタビュー<2>1988年の日本シリーズ、第2戦で2ラン「汚名返上できたかな」

 

昭和生まれのレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。中日で渋い左打者として活躍した川又米利さんの2回目は、現役生活の前半の思い出を伺いました。
文=落合修一

川又米利


星野監督が就任「すごい人が来た」


──ドラフト外で、1979年に中日に入団。当時のドラゴンズはどういうチームでしたか。

川又 最初に星野仙一さんを見たとき、高校野球の延長みたいに感じましたよね。厳しい先輩というか、話すときは直立不動みたいな、ピリピリ感がありました。僕は1年目の5月に一軍に上がり、一応、シーズン最後までいましたね。

──ドラフト外入団の高卒1年目で、すごいじゃないですか。

川又 そこまではね。もう少しでレギュラーだ、そのうちレギュラーに何とか食い込めたらいいなと。ただやっぱりこう、守備がね。自分では下手だと思っていなかったんですけど、「下手だ、下手だ」という感じに言われつつあったので、もうちょっとしっかりやらなきゃというところはありましたね。

──年度別成績を見ると、84年までは出場試合数が少ないですね。100を超えた年がない。

川又 1年目の秋季練習で、寝返りもできないくらいに腰を痛め、いろいろな病院に行きました。振り返るとそのへんから自分の打撃を失った感じです。2年目に初本塁打を打ったんですが、それ以外はパッとしなかった。4年目(82年)のチームの優勝にも、あまり貢献していない。5年目(83年)は、同じ年齢の人たちが大卒で入ってくるということで、「やらなきゃ」っていう思いの中で、夏場ぐらいに代打で5本とか打って、これはいけるかなっていうのが自分の中であったんですが、6年目(84年)もやっぱりダメで。このままなら本当に今で言う戦力外。クビになってもおかしくない状況だったと思うんですよ。

──で、85年の春季キャンプ直前に外野の不動のレギュラー・田尾安志選手が西武にトレードされた。

川又 ライトのポジションが空きました。そのおかげで試合に出られるようになったわけですよ。田尾さんがいたら、やっぱり田尾さんを抜くことはあまり考えられなかったというか。ライトに田尾さんがいて、ファーストに谷沢(谷沢健一)さんがいる状況ではね。当時の山内(山内一弘)監督は「田尾が抜けた後は藤王(藤王康晴)で」という構想があったのですが、なかなか藤王も結果を出せなくて、僕に出番が回ってきた。球団が見捨てずに見守ってくれたっていうのはあるのかな。

──やっぱりレギュラーになると、それまでと気持ちも違いましたか。

川又 そうですね。初めて1年間一軍でやれたっていうのは、「やっとプロ野球選手になれたのかな」っていう。時間はかかりましたけど、ようやく第一線でやれるようになったっていうのはありましたよね。

──守備については、さっきもおっしゃっていましたけど、ご本人は自分としては「下手」とは思ってなかった、と。しかし、失礼ですが、世間からはあまり評価されていませんでしたよね。

川又 そういうふうに思われないよう頑張ろうという思いがあったんです。でも・・・

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