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レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し

内藤尚行(元ヤクルトほか)インタビュー<3>篠塚の打球、本当はファウル?「長嶋さん、テレビで言ってよ。野村さん、猛抗議してよ」

 

昭和生まれのレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。“ギャオス”こと内藤尚行さんの3回目は、1990年にヤクルト野村克也監督が就任してからのお話です。
文=落合修一

内藤尚行


開幕投手はバニスター?


──1990年から野村克也さんがヤクルト監督に就任。最初はどう思いましたか。

内藤 野村さんと言えば、ミーティングが長そう。最初にテレビのインタビューで言っちゃったんですよ、「眠くなりますよね」って。それをノムさんに見られて、実際のミーティング初日にみんなの前で言われたんです。「眠くなる奴がおるらしいな。なあ、、内藤」って。それでドッカーンとウケました。

──実際のミーティングは。

内藤 やっぱり勉強になることが多く、めちゃくちゃ面白かったです。ノートを取りました。今思えば、ミーティングというよりも勉強会でしたね。自分はこういう野球をやりたいという「理論」を、言葉にして文章で説明する。そんなの、ノムさんくらいしかいなかったんじゃないですか。ノートがどんどん分厚くなっていきました。

──そして、野村監督のヤクルト1年目の90年、内藤さんは開幕投手に選ばれました。

内藤 当時は予告先発ではありません。マスコミを利用するのが大好きな野村さんは、左打者の多い巨人には左投手のほうが有効だよねという話を新聞記者にしました。ヤクルトにいたフロイド・バニスターという左腕投手の開幕投手起用を示唆したわけです。僕もバニスターが開幕投手なのだろうと思っていたのですが、開幕1週間前くらいかな。投手コーチが「内藤、開幕はお前で行くらしいぞ」と。

──「らしい」。

内藤 ノムさん、直接言ってくれなかったです。それから1週間、開幕に照準を合わせて調整しました。新聞記者はみんなバニスターが開幕投手だと思っているから、僕のところに取材なんか来ないんですよ。僕も目立つのが好きなので、しゃべりたい。でもそれはチームとして巨人をだます作戦だったので、言えなかったです。スタメンが発表されたら、巨人のスタメンは一番・川相昌弘さんで二番・篠塚利夫(現・篠塚和典)さん。

──本来なら一番・篠塚さんで二番・川相さんですよね。

内藤 そう、左投手が来ると思った巨人は、左打者の篠塚さんの打順を下げたんです。

──皮肉なことに、その篠塚さんが二番になったことで終盤の「あれ」につながります。

内藤 途中まで3対1で勝っていたのに、8回裏一死二塁から「疑惑のアーチ」が生まれました。

──篠塚さんの右翼ポール際への打球が「本塁打」と判定され、同点に。

内藤 僕はマウンドから打球を見て、「ああ、ファウルだ。良かった」と安心したんですよ。しかし視線を戻したら審判が腕をぐるぐる回している。崩れ落ちましたよね。あのときは審判が6人制から4人制に変わった最初の年です。その開幕戦。

──映像で見ても、まあ、ファウルでしたよね。

内藤 あとでビデオを見たら、開幕戦で解説が長嶋茂雄さん、堀内恒夫さん、中畑清さん。打球の映像を何度もリプレーしていて、明らかにファウルなんですよ。でも長嶋さんは「どうでしょう」と言ったきり、黙っちゃった。堀内さんも何も言わない。前年引退したばかりで解説者デビューの中畑さんに「あれはファウルだ」と言ってほしかったのに、やはり言ってくれない。

──全員が巨人OB。巨人に有利な判定だったから……。

内藤 次の日、一茂(長嶋一茂 当時ヤクルト)に聞いたら、家でお父さんは「あれはファウルだったね」と言っていたらしい。それはテレビで言ってくれよ(笑)。思い出すのは、78年のヤクルト対阪急の日本シリーズ第7戦ですよ。

──大杉勝男選手(ヤクルト)の疑惑の本塁打。

内藤 あのとき、阪急の上田利治監督は「ファウルだ」と1時間19分の抗議をした。僕はあれと同じくらいの大問題になるぞ、と思っていたら、ノムさんの抗議は5分くらいで終わってしまった。もう、なんでかなという気分でした。

1990年、自身初の開幕投手に選ばれた内藤は2点リードの8回一死二塁の場面で巨人・篠塚の右翼ポール際の打球を「本塁打」と判定され、思わず崩れ落ちた


ナゴヤ球場での3者三振


──ヤクルト時代の内藤さんと言えば、93年9月2日の中日戦(ナゴヤ)も印象深いです。

内藤 中日と優勝争いをしていたヤクルトが2ゲーム差で首位にいる状況で始まった3連戦に2連敗してからの3戦目。3タテを食らったら1ゲーム差の2位になるという試合で、2対2の同点の延長15回裏、中日が無死満塁とした。そこで自分がリリーフしたわけですよ。

──とんでもない場面でしたよね。しかも、アロンゾ・パウエル選手、落合博満選手、彦野利勝選手というクリーンアップが相手。

内藤 あの年は不調。ずっと、91年の途中くらいから肩が痛くて、そのときの自分は崖っぷちでした。あのときは点を入れられたら即二軍だろうなという状況でした。

──そこで3者三振、無失点。

内藤 中日に流れを渡さずに引き分けにして、シーズンの流れが変わったんです。あれからヤクルトは踏ん張って、最終的には7ゲーム差をつけましたから。

──あの試合以降、ヤクルトは閉幕まで25勝7敗だったんですね。

内藤 分岐点と言うか、優勝するための大事なポイントだったと思います。抑えていなかったら、あの年のヤクルトは優勝していなかったかもしれない。

──その後の黄金時代もなかったかもしれない、野球の歴史を変えた投球。あの場面で意識していたことは。

内藤「三振を奪うしかない」というより、「絶対にやってはいけないのは押し出し」ということ。ホームランは仕方ない。でも四球や死球だけは絶対にダメ。その気持ちで投げていました。途中、パウエルへのインコースの球が当たったと思ったらよけてくれて、「助かった」と思いましたね。本当に紙一重でした。

──古田敦也捕手のリードはいかがでしたか。

内藤 あのときの古田はすごく冷静で、リードに救われました。やるべきことをしっかりやろうと決めたほかは、古田の言うとおりに投げていただけなんです。

──内藤さんは1968年生まれ。古田さんは65年生まれ。年上の人を呼び捨てでいいんですか。

内藤 プロに入ったのは自分が先なので(内藤=87年、古田=90年)、「先に入ったほうが先輩だろ」という感覚でした。

──話を戻すと、あの試合のあとは。

内藤 あのときは絶好調だったのですが、その約1カ月後、またナゴヤ球場の試合、ピンチの場面でマウンドに上がったんです(10月13日)。もう肩がパンパンで限界でしたが、優勝が決まる直前で「抑えれば胴上げ投手に起用されるかもしれない」という欲がありました。

──当時の状態は。

内藤 投げると肩が痛かったのですが、6回裏の頭から登板して無失点。3イニング目となる8回裏の先頭、打者は彦野さんでした。カウントは2─1。次の投手も準備していたので、「この1球で降板させてもらおう」と思いながら真ん中高めに投げたんです。次の瞬間、肩に雷が落ちたような衝撃でした。その直後に倒れ込み、古田に「無理、無理」と合図して、そのままマウンドを降りました。プロ野球の投手として自分の「最後」だったのだと思います。その後は肩の痛みとの戦いで、全盛期のボールは戻りませんでした。あの1球が、選手生命の分岐点だったんでしょうね。

──チームはどんどん強くなっていったのに。

内藤 やっぱり体がついていかなかったです。野村監督の野球に対応できないという感覚があって、やりたいけどできない。レベルの問題というより、自分の体が応えられないという感じでした。それでも目立ちたいという気持ちはありましたけどね。(次号へ続く)

PROFILE
ないとう・なおゆき◎1968年7月24日生まれ、愛知県出身。豊川高からドラフト3位で87年にヤクルトへ入団。長身から投げ下ろす速球を武器に、先発、救援の両面で活躍し、89年には12勝8セーブをマーク。90、91年には開幕投手を務めた。95年に青柳進との交換トレードでロッテへ移籍し、96年途中に中日へ移籍。97年限りで現役を引退した。通算成績は195試合登板、36勝29敗26セーブ、防御率3.96。引退後は野球解説者、タレントとして活動しながら、2013、14年はBCリーグ・新潟の監督も務めた。
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