昭和生まれのレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。1980年のスーパールーキー、元日本ハムほかの左腕・木田勇さんの第3回は、最も輝いていた80年シーズンのお話を伺いました。 文=落合修一 
木田勇
ウナギの稚魚の思い出
──1980年にドラフト1位で日本ハムに入団。1年目から20勝できると思っていましたか。
木田 そんなことは思ってないです。ただ、最低でも10勝はしたかった。なぜかと言うと、前の年に同い年の
森繁和が住友金属から
西武に入って、5勝7セーブ。
松沼博久さんは東京ガスから西武入りして、16勝。日本鉱業佐賀関から
中日に入った
藤沢公也さんが13勝。社会人野球で一緒にやっていたような投手がそのくらい勝っていたので、同じくらいには勝ちたいなと。自分もそれなりに評価されてプロに入ったのでね。もう僕も26歳になるシーズンだったし、最初から一軍の先発ローテーションで投げるつもり。「細く長く」なんてまったく考えていませんでしたね。僕のプロ野球人生は「太く短く」。最初からそのつもりでした。
──最初の思い出は。
木田 1月15日だったかな。新人合同自主トレというのが多摩川のグラウンドで始まったんですよ。そこから飛ばしましたね。ドラフト直後から腹を決めて毎日トレーニングしていたので、体は出来上がっていました。練習でもとにかく目立ってやろうと。やっぱり、ドラフト1位だったからメディアにも注目されていましたし。
──当時の
大沢啓二監督はどういう方でしたか。
木田 新聞やテレビで見ていたのと同じだなと思いましたね。サングラスをかけて、同じ顔だなと思いました。話してみても、例のべらんめえ口調で豪快な方。従来のイメージと同じでしたね。僕は好きな監督でしたね。
──当時のファイターズのエースは
高橋直樹さん。日本鋼管の大先輩ですよね。
木田 僕がプロに入るまで会ったこともなかった人です。年齢が全然違うので……。しかし、プロに入ってからかわいがっていただきました。徳島県の鳴門というところで春季キャンプがあったのですが、そこで同じ部屋になりまして、いろいろ教わりましたからね。プロ野球界のしきたりとか、チームの中のルールとか。そんなにかしこまったルールはないチームでしたけど。懐かしいなあ。そのときの旅館は海沿いにあって、夜になるとね、おじさんとお母さんが乗っている小舟が来て、ライトをつけて、何かを採っているんですよ。窓を開けて、「何をしているのですか」と尋ねたら・・・
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