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レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し

小川淳司(元ヤクルトほか)インタビュー<3>中大で打者転向、プロへの転機「自分もプロへ行きたい」

 

昭和生まれのレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。ヤクルトで監督、GMなどを務めた小川淳司さんの3回目は、大学、社会人、そしてヤクルト入団のころのお話です。
文=落合修一

小川淳司


中大に入学後は打者一本に


──習志野高3年夏(1975年)に甲子園で優勝投手に。次の進路をどのように考えたのですか。

小川 高校の石井好博監督が早大出身だったので、早大を受験する話が進んでいたんですよ。僕は甲子園のあと、オールジャパンでアメリカ、ハワイ遠征に行って、10月には国体があって、その後も韓国遠征があって、全部試合で投げたんですよ。その後、車の免許を取りたくて、教習所へ通い始めたんです。しばらくしたら、「教習所なんか行っている場合じゃない。早大へ行くなら、しっかり勉強しろ」と言われ、個人塾みたいなところへ通わされました。そこで勉強していたら、12月か1月か、記憶は定かじゃないんですけど、中大の学長と宮井勝成さんという監督が、わざわざ来られて誘ってくださったんですよ。そのときに「中大の一部の法学部」という話をいただいて、「おまえの頭で早大が難しいなら、中大の法学部で獲ってもらえ」という話になって、中大に決まりました。

──将来プロ野球選手になることは考えていたんですか。

小川 そのときはあまり。自分の能力的にも、プロは難しい世界だという認識でした。肩も痛かったですし、大学へ行ってすぐ投手をやるかと言われても、様子を見ながら、たまに投げる程度でした。でも、宮井監督は、とにかく野手として目を掛けてくださったんです。1年生の最初のオープン戦、東京ガスとの試合で、いきなり最初の打席でホームランを打ったんですよ。それ以外は全然打てなかったのに、外野手として使ってもらいました。

──大学に入ってからは打者一本だったんですね。

小川 そうですね。ただ、高校では投手の練習だけで、打撃練習も守備練習もやった記憶がないんですよ。その状態で大学へ行ったので、本当に大学からのスタートでした。4年間、打てないにもかかわらず最後まで使ってもらって、大学の同級生に熊野輝光という選手がいて、のちに阪急に入って新人王(85年)になったんですけど、大学4年のときにヤクルトからドラフト3位で指名されたんですよ。ところが、当時のヤクルトの武上四郎監督と話をしたあと、「ヤクルトには行きません」となったんです。宮井さんにはずいぶん怒られたみたいですけどね。そのときに宮井さんから「おまえ(小川)は河合楽器、熊野は日本楽器(現ヤマハ)」と振り分けられたんです。それで社会人(河合楽器)に進みました。僕が本当にプロへ行きたいと思い始めたのは、社会人1年目が終わったころなんですよ。僕が中大1年のときに4年だった岡村隆則さんという方が河合楽器でも先輩で可愛がってもらっていたのですが、僕が河合楽器へ入って1年一緒にやっただけでプロ(西武)へ行ったんです。そのときに、「自分もプロへ行きたいな」という気持ちが出てきたんです。

──一緒にプレーしていた選手がプロから誘われる姿を見て、自分もという気持ちになったわけですね。

小川 それはありましたね。あとで聞いた話なんですけど、僕は日本楽器の熊野より先にプロへ入ったんです。彼は最初、プロに興味がなかったみたいなんですけど・・・

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