昭和生まれのレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。今回から、中日、ロッテで二塁手として活躍した上川誠二さんです。まずは箕島高で過ごした高校時代の思い出を中心に伺いました。 文=落合修一 
上川誠二
名門・箕島高で甲子園優勝
──お生まれは和歌山ですよね。
上川 和歌山県有田郡広川町です。
──有田とは、有田みかんの有田ですか。
上川 はい。僕の家でも有田みかんを作っていました。親父は町役場に勤めながら農業もやっていまして、兼業農家でした。親父は野球が好きで、僕が小3のときから古いタイヤを2つぐらい木に付けて、そこに向かってバットを振らされました。最初は右打ちだったんですけど、親父が左のほうが有利だからと左打ちに変えたんですよ。
──上川さんご自身の気持ちは。
上川 野球が好きだったので楽しくやっていましたね。ただ、近所に野球チームがなかったので、ちゃんとしたチームでやったのは地元の広川町立耐久中に入ってからです。
──耐久中ですか。耐久高校というのもありますね。
上川 そうです。その近くです。野球部ではサードで四番を打っていたんですけど、僕は耐久高に進学する予定でした。しかし、中3(1974年)の9月に箕島高の尾藤(尾藤公)監督が家に来てくれて、「俺と一緒にやろう」って。耐久高は徒歩10分ですが、箕島高は電車で15分。
──当時の箕島高は全国レベルの強豪ですよね。
上川 東尾修さん(のち
西武)で初めて甲子園へ行って(68年春)、
島本講平さん(のち南海ほか)で優勝して(70年春)、その後尾藤監督は一旦辞められ、復帰したときに僕をスカウトしてくれたんですよ。耐久中の校長先生が尾藤監督のお父さんと友人で、「いい中学生がいる」と僕を推薦してくれたらしいです。僕は耐久高に行くつもりで、中3の夏休みは耐久高の練習に参加していたのですが・・・
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