昭和生まれのレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。捕手として近鉄、巨人などで活躍した有田修三さんの2回目は、若手時代のお話を伺いました。 文=落合修一 
有田修三
おっちゃんが下着を洗濯
──1973年にドラフト2位で近鉄に入団しました。
有田 契約金は1000万円、年俸180万円。当時はいろいろ不正があって、表に出ない金を上乗せする球団もあったらしいんですよ。それが問題になり、僕らのころは上限がピシッと決まっていました。
──それでも、社会人選手にとっては大金ですよね。
有田 とんでもない金ですよ。今なら1億円ぐらいの感覚とちゃうかな。年俸180万円なら、月に15万円でしょう。新日鐵八幡でもらっていた月給は3万5000円くらいだから、一気に4倍以上。「うわあ、こんなにもらえるんや」と思いましたよ。
──生活は一変しましたか。
有田 ただ、当時は今のようにメーカーが用具を提供してくれるシステムがほとんどなかった。バットなんかも自分で買っていたので、給料から引いてもらうんです。1年目は12月になると、給料が残っていなかった(笑)。
──バットも高かったでしょうからね。
有田 それでも金に困ることはなかったなあ。いつも100万円くらいを後ろのポケットに入れて、飲み歩いていました。
──年収の半分以上ですよ。最初は寮生活だったのですか。
有田 楽しかったですよ。元選手の厳しい寮長じゃなく、近鉄の会社から来た普通のおっちゃんだった。管理人みたいな感じですね。洗濯は、そのおっちゃんが全部やってくれました。みんなで金を出し合って洗剤を買うんだけど、少し余るでしょう。その金をおっちゃんがもらって、僕らの洗濯をしてくれたわけです。
──通常業務ではなく、非公式のアルバイトですね。
有田 下着、野球のアンダーシャツ、アンダーパンツ、ソックスも全部。遠征から帰ると、タンスの中へピシーッと畳んで入っているんです。ユニフォームも洗ってくれたんちゃうかな。僕は自分で洗濯したことが一度もなかったので、洗濯機をどうやって使うのか、全然分からなかったですよ。今でも分からん(笑)。
──野球では、1年目から一軍だったのですか。
有田 春季キャンプの最初は二軍ですよ。当時の監督は
岩本堯さん。若い選手を育てないといけないという考えがあったようで・・・
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