昭和生まれのレジェンドの皆さんに、とにかく昔話を聞かせてもらおうという自由なシリーズ連載。内外野を守るユーティリティープレーヤーとして大洋・横浜、ロッテで17年間プレーした高橋雅裕さんの最終回は、現役晩年について語っていただきました。 文=落合修一 
高橋雅裕
年俸が低くてクビを免れた?
──
前回からの続きです。1992年オフ、
日本ハムへのトレード移籍がほぼ決まっていたと。
高橋 ところが、
近藤昭仁さんがベイスターズの監督に就任しました。アキさん(近藤)はトレードの話も知っていて、横須賀の食堂で「おまえは出さん」と僕に言ったのです。僕は、使っていただけるのであれば、積極的にチームを出たいわけではありません。それを伝えたら、「左投手のときの代打で考えている」と。
──役割まではっきり言われた。
高橋 そこまで言われたら「頑張ります」となりますよ。でも開幕したら、右投手のときに代打で出されたんです。「言ってたのと違うじゃん」と(笑)。ただ、僕はチームに必要とされるのであれば、レギュラーでなくてもよかったんです。
──近藤監督の就任と同時に、球団名も横浜大洋ホエールズから横浜ベイスターズに変わりました。
高橋 特に違和感はなかったですね。ちょっと都会的になったな、というくらい。それまで縦縞のユニフォームを着たことがなかったので、「縦縞ってこんな感じなんだ」とは思いましたけど。
──チームも世代交代が進んでいきます。
高橋 石井琢朗や
進藤達哉がバリバリのレギュラーになりましたからね。僕も「今からレギュラーというのもなあ」という感じになり、内野だけじゃなく、外野も守るようになりました。必要とされるところで出るという感じです。
──その一方で、93年オフには
高木豊さん、
屋鋪要さんらベテランが大量に自由契約となりました。
高橋 あれはびっくりしました。ショックというより、びっくり。「この人たちでも切られるんだ」と。まだできるのにな、という気持ちもありましたけど、プロ野球選手である以上、誰だってクビを切られる可能性はある。そのことは常に考えていましたから。
──自分も対象になる可能性があったと思いますか。
高橋 ありましたよ。あのとき僕はチームで年俸が11番目くらいだったんです。須藤(
須藤豊)監督のとき(90〜92年途中)に試合に出られなくなったので、給料が下がった結果です。もし試合に出ていたら僕の給料はそんなに下がっていなかったでしょう。一緒にクビを切られていた可能性はあったと思います。
──皮肉なものですね。
高橋 そうなんですよ。だから僕は本当に・・・
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