
東映フライヤーズの1962年の開幕2試合目、大毎戦[神宮]の延長10回にプロ初登板を果たした怪童・尾崎行雄は、四番・山内和弘から三振を奪った。NPB公式記録によると空振り三振である
「大したことはない」と山内は言った
プロ野球史に残る剛速球投手の話になるとき、必ず名前が挙がる「少年」がいる。高校2年生だった1961年、夏の甲子園で浪商高(現大体大浪商高)を優勝に導くや、それを置き土産に学校を中退、11球団争奪戦の末に東映フライヤーズ(現
日本ハム)に入団した「怪童」尾崎行雄である。
身長は176cmとやや小柄。笑うと年相応のあどけなさがあったが、ぶ厚い胸板、大きく盛り上がった尻を持つ堂々たる体格。そしてスリークオーターから放たれるストレートは、すさまじく速かった。打者は真ん中だと思って振りにいっても、そこから浮き上がるボールはバットの上を通過したという。まだスピードガンのない時代だったが、後年あるテレビ番組が当時のフィルムから球速を割り出したところ、その数値は159.2キロを記録している。加えてその速球には威力もあった。東映の捕手だった
種茂雅之は「速さだけなら僕が阪急のコーチ時代に受けたことがある
山口高志もすごかった。でも尾崎の1年目は球威が違いました。僕の野球人生の中で、捕球したとき、ボールの勢いでミットが止まらなかったのは尾崎だけです」と語っている。種茂だけではない。
稲尾和久や
権藤博など、同時代にプレーした多くの名選手が別格と評したストレートを投げた男。それが尾崎だった。
62年、尾崎はオープン戦で3勝を挙げる評判どおりの活躍を見せた。3月28日の
巨人戦(浜松)では
長嶋茂雄から3球三振を奪っている(長嶋いわく『とにかく速いよ!』)。尾崎は手応えをつかんでいた。だが開幕前のある日、新聞を読んだ尾崎は怒りで震えた。そこには大毎オリオンズ(現
ロッテ)の主砲・山内和弘の「尾崎がいくら速いといっても高校出の少年。公式戦に入ったら打たれる。大したことはない」と言うコメントが載っていたのだ。尾崎は誓った。
(よし、いつか対戦したときはぎゃふんと言わせてやる……)
その「いつか」は4月8日、開幕2戦目にさっそく訪れた。この年から東映の本拠地となった神宮球場には、前年僅差で優勝を逃した東映への期待と、何より評判の「怪童」見たさに6万人もの観客が詰めかけた。ダブルヘッダー第1試合は・・・
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