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あの日、あのとき、あの場所で 球界の記念日にタイムスリップ

<2000年12月18日>「巨人キラー」がFA移籍を発表。新天地で0勝に終わると、この時点では誰も思わず

 

川崎[写真中央]が中日に移籍した1年目、2001年2月の春季キャンプにて[左は岩瀬仁紀、右は紀藤真琴]


打倒・巨人が生きがいだった


 FA宣言をしていた川崎憲次郎(ヤクルト)が、代理人を通してボストン・レッドソックスに断りの連絡を入れたのは、2000年12月13日午後1時半のことだった。回答期限は午後3時。前日は深夜2時過ぎまで家族会議を開いていたという。

 川崎は、大リーグのマウンドにあこがれを抱いていた。獲得に名乗りを上げた球団の中で、一番条件がよかったのもレッドソックスだった。しかし家族の事情もあり、最終的には日本球界に残ることを決めた。悩みに悩んだ末の結論だった。16日には神経性胃炎でダウンしたほどである。

 ヤクルトも慰留に努めたが、通算88勝の29歳が選んだのは、FA宣言後真っ先に手を挙げた中日だった。17日、川崎は正式に移籍を表明した。

 川崎は「巨人キラー」で鳴らした右腕だった。対戦成績はこれまで29勝24敗。シュートを武器に17勝(最多勝)を挙げた1998年は、そのうち6勝が巨人戦で、8勝に終わった2000年も5勝は巨人相手に稼いだものだった。川崎にとって、巨人に勝つことは生きがいだった。

 自身現役時代は「巨人キラー」(35勝31敗)であり、指揮官となってからも打倒・巨人に執念の炎を燃やす星野仙一監督にすれば、川崎は何としても欲しい投手だった。その熱意が実った。中日移籍を決めた最大の理由は、星野による「巨人だけには勝ってくれ」という言葉だったという。背番号は、星野も背負った中日のエースナンバー「20」が与えられた。

 18日の入団会見では「打倒・巨人の期待に応えられるよう、優勝を目指して頑張りたい」と語り、笑顔を見せた川崎。そんな彼が、このあと・・・

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