
ロッテ・石原春夫球団代表[中央]の就任会見。左は松井静郎球団社長、右は中村長芳オーナー[写真=産経新聞社]
ロッテからのオファーを一度は断る
東急社員を経て実業家に転じていた石原春夫(62歳)が、東急グループ総帥である五島昇の自宅に呼ばれたのは、1972年1月19日のことだった。会うなり、五島は言った。
「ロッテの球団代表をやってくれないか。僕はロッテの重光武雄社長とは懇意だし、球団の中村長芳オーナーからも強く頼まれているのだ」
石原は、かつて東映フライヤーズ(現
日本ハム)の球団代表を長年にわたって務め、合理的な球団運営を行い、62年にはかつての弱小チームを日本一に導いた実績を持っていた。球界の表裏にも精通している。球団を買収して日が浅いロッテにすれば、うってつけの人材であった。
実は石原にはすでにロッテからオファーがあったが、断っていた。合理主義者で正義感が強い石原からすれば、当時の球界は非合理的かつ不条理だった。チームが弱いとしばしば自宅に脅迫電話があり、その心労もあって病弱だった妻は早くに亡くなっていた。もう野球には関わるまいと強く心に誓っていたのである。
だが大恩のある五島の依頼をむげに断ることはできなかった。石原は受諾する。翌20日には早くも球団から代表就任が発表された。石原は誓った。引き受けたからには、必ず3年以内に日本一になってみせると。
しかしながら問題は山積みだった。第一に、中村と重光の関係がぎくしゃくしていた。
江藤慎一ら主力打者3人を放出した大型トレードや、
大沢啓二監督と異例の5年契約を結んだことを重光は事前に知らされておらず・・・
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