
来日しなかったのだから当時のドローチャーの写真は当然ながら存在しない。写真はMLB監督最終年の1973年のアストロズ時代[写真=Getty images]
通算2008勝のMLB史に残る大監督
1975年12月16日、太平洋クラブライオンズのオーナーである中村長芳は福岡市内のホテルで会見を開き、
江藤慎一に代わる新監督として、レオ・ドローチャーを招聘(しょうへい)する予定であると発表した。渡米中の青木一三球団代表がすでに交渉し、契約は五分五分という感触をつかんでいるという。「私が直接出向いてでも、引っ張ってきたい」と、中村は獲得に強い意欲を見せた。世間は騒然となった。中村の口から出た名前が、途方もない大物だったからである。
ドローチャーは大リーグを代表する監督として、当時日本でもよく知られた存在だった。ドジャース、ジャイアンツ、カブスなどで指揮官を務め、通算勝利は2008勝。ジャイアンツを率いた54年にはワールド・シリーズを制覇した。「お人好しで野球に勝てるか」(自伝の邦題にもなった)が口癖の闘将で、審判とも衝突を繰り返し、退場は実に124回を数えた。ドジャース監督時代は、近代大リーグ初の黒人選手となったジャッキー・ロビンソンの入団を「能力があれば肌の色は関係ない」と後押ししたことでも知られる(もっとも当人は、ロビンソンがデビューした47年の開幕前に若手女優と駆け落ちするという醜聞で1年間の出場停止処分を受けているが)。73年にアストロズ監督を退任してからは、第一線を離れていた。
マスコミは驚きをもってこのニュースを報じながら、同時に「どうせ話題づくりではないか」と冷ややかな視線を向けた。そう思われても仕方がないほど、当時のライオンズには「前科」があった。
「太平洋クラブ」と頭につくが、親会社ではない。一種のネーミング・ライツ契約で、運営は中村が私財を投じて設立した福岡野球株式会社によって行われていた。入場収入以外に主な財源はない。そのためこの球団は・・・
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