
1972年限りで現役引退した村山は翌73年3月21日の巨人とのオープン戦[甲子園]に、若手投手陣がつくった騎馬に乗って登板した
ライバル・長嶋とは常に真っ向勝負
1959年6月25日。この日後楽園球場で、昭和天皇・皇后両陛下ご臨席のもと巨人対大阪(現
阪神)戦、世にいう天覧試合が行われた。
4対4の同点で迎えた9回裏、巨人の四番・
長嶋茂雄に対し、マウンドのルーキー・
村山実は、2-2から内角高めへストレートを投げ込んだ。長嶋は思い切りバットを振った。打球の行方は、野球ファンであれば誰もが知っている。レフトに消えた。劇的なサヨナラアーチであった。
しかしただ一人「あれはファウルだ」と最後まで言い張った男がいた。打たれた村山である。この時点ですでに3完封を含む5勝を挙げていたが、この天覧試合こそが「本当の意味でのデビュー戦やった」と村山は語る。それほどの衝撃と屈辱を村山は味わった。一生をかけてこの悔しさを晴らす。以後、村山にとって「打倒・長嶋」が野球人生のテーマとなった。なお1年目の村山対長嶋の対戦成績は23打数3安打である。被打率.130と、村山が長嶋を抑えたように見えるが、3安打はすべて本塁打だった。球史に残る「宿命の対決」(村山)は、こうして始まった。
全身を使った豪快な、それでいて悲壮感すら漂わせた村山のフォームは、顔をゆがめながら走るマラソンの金メダリストになぞらえ「ザトペック投法」と呼ばれた。そこから繰り出される剛速球と、切れ味鋭いフォークが村山の武器だった。同時に村山は、触れれば火傷(やけど)するほどの闘志も兼ね備えていた。どんなに点差が開いていても手を抜かず、常に全力投球を続けた。
63年8月11日の対巨人ダブルヘッダー第2戦(後楽園)では、ボールの判定に納得がいかず・・・
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