
「バックスクリーン3連発」が飛び出した日は江夏豊が事実上の現役引退を表明し、その年の優勝の守護神となった中西清起がプロ初セーブを挙げた日でもあった[写真は掛布雅之の本塁打の直後]
メジャー挑戦中だった江夏が帰国会見
1985年4月17日。
西武を退団し、大リーグに挑戦するも夢破れた江夏豊が、午後4時51分成田空港着の飛行機で66日ぶりに帰国した。マイナー契約の打診はあったが、37歳の誕生日を1カ月後に控えていたサウスポーは断った。
「道はあったが、向こうに残ってやるほど若くない。夢を実現させるために精一杯(いっぱい)やった。満足している」
会見でそう語った江夏は、一部で噂(うわさ)された日本球界復帰をきっぱりと否定した。
5球団でプレーし、後年は抑え投手として新境地を開いた江夏だったが、最も活躍したのは最初に入団した
阪神時代だろう。20勝投手になること4回。68年にはシーズン奪三振のNPB記録を打ち立て(401個)、ノーヒットノーランを自らのサヨナラ本塁打で決めたこともあった(73年8月30日=甲子園)。阪神でさまざまな伝説を残した剛腕投手の現役生活が、この日正式に終わりを告げたのだった。
だがまさにその日、阪神に新たな「伝説」が生まれることになる。江夏帰国から約1時間半後に甲子園で始まった開幕直後の対
巨人戦。7回裏、阪神の攻撃時にそれは起きた。
1対3と巨人に2点のリードを許した状況で、阪神は二死ながら走者一、二塁の好機をつかんだ。打席には三番の
ランディ・バース。前年打率.326、27本塁打の活躍を見せた頼もしい「助っ人」も、開幕からここまでは15打数2安打6三振と出遅れていた。
好投を続ける巨人先発は、21歳の
槙原寛己。完投を見据え、球数を節約したいところだった。三振を狙うよりゴロを打たせよう……。初球に選んだのは・・・
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