
自身5球団目の南海のユニフォームを着て加藤が放った通算2000本目のヒットは、阪急で同期入団だった山田[左]からの本塁打だった
山田、福本と阪急黄金時代を築く
NPBでドラフト会議が始まって以来60年近い歳月が流れたが、1968年度の阪急ブレーブス(現
オリックス)ほど成功したドラフトはないだろう。なにしろ阪急は、この1回で200勝か2000安打が入会基準の名球会の会員を3人も獲得できたのだから。
山田久志(1位・通算284勝)、
福本豊(7位・通算2543安打&1065盗塁)、そして
加藤秀司(2位・通算2055安打&347本塁打)。「花の(昭和)44年組」と呼ばれた3人は、それぞれエース、先頭打者、打線の主軸として70年代に6度のリーグ優勝と3度の日本一を達成するチームの中核を担った。
FA制度がなく、スター選手の移籍が珍しかった当時、山田と福本は阪急一筋の現役生活を全うした。だが加藤だけは違った。首位打者2回、打点王3回の「打撃の職人」は、名球会のブレザーを羽織るまでに、阪急を含め5つのユニフォームを着ることになったのだ。
69年10月20日の近鉄戦(日生)。前日にリーグ優勝を果たした阪急は、シーズン最終戦となるこの試合に若手主体のメンバーで臨んだ。山田はプロ初となる先発のマウンドに立ち・・・
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