
藤波は1976年オフに中日からクラウンライターへのトレードを「拒否」して認められたが、ペナルティーとして背番号は3から40に「降格」となった
ドライチ、背番号3、1年目に新人王
一昔前までのプロ野球選手のトレードは、力が落ちた、あるいは問題を起こした選手の厄介払いという負の印象が強かった。ゆえにトレードを通告された選手は、主力選手であればあるほど拒否感を示した。例えば中日の抑え投手として活躍した
牛島和彦は、1986年オフに
落合博満との交換で
ロッテへ移籍することを球団社長から告げられたとき、こう言ったという。
「僕が何か悪いことをしましたか? 会社に迷惑を掛けましたか?」
それでも結局、牛島を含むほとんどの選手はトレードを受け入れた。ルール上、断って残留する権利は選手になく、あくまで拒否するなら引退しか選択肢はないからだ。
少数だが、実際に引退を選んだ例もある。有名なのは、85年オフに近鉄へのトレードを命じられた
巨人の
定岡正二だろう。この年、リリーフ投手として47試合に登板した定岡は、まだプロで十分活躍できる力を持っていた。年齢も28歳と若かった。それでも「好きな巨人で終わりたい」と、定岡はユニフォームを脱いでいる。
トレードを通告され、それを呑(の)むか、あるいは引退するか……。そのどちらでもない「第三の道」を選択した男がいた。中日の外野手・
藤波行雄である。
藤波は、アマ球界のエリートコースを歩んだ打者だった。静岡商高2年時に出場した68年夏の甲子園大会では・・・
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