
1950年の西日本パイレーツの主力選手たち。左から打率.304、21本塁打の成績を残した永利勇吉、中堅手のレギュラーを務めた塚本博睦、多くの試合で三、四番を任された南村不可止[のち南村侑広]
九州の球団がセ・リーグにあった
1949年11月26日。日本プロ野球は、セ・リーグとパ・リーグに分かれた。発足時の球団数はセが8で、パが7。それぞれが6球団制となったのは、58年からである。そこに至るまでには球団の合併、創設、消滅があり、チーム名は毎年のように入れ替わった。混乱の時代だったと言える。そんな中でも、たった1年間しか存在しない球団があった。セの西日本パイレーツである。
親会社は九州のブロック紙で、福岡を拠点とする西日本新聞。提携関係にあった読売新聞が、九州にセの球団を作るべく強く働きかけたことで、49年12月に誕生した。西日本新聞に球団運営のノウハウはなかったが、短期間でなんとかチームの体裁を整えた。
50年3月10日。パイレーツは、地元・福岡の平和台球場で行われた
広島との開幕戦に勝利する(6対5)。歓喜に包まれての船出となったが、その航路にはすぐに暗雲が立ち込めた。続く
巨人との4連戦に1勝3敗と負け越して下位に転落すると、以降は浮上のきっかけすらつかめず、6位(8球団中)が定位置となった。
目立つ選手がいなかったわけではない。阪急(現
オリックス)から移ってきた外野手の永利勇吉は、打率.304&21本塁打の活躍を見せ、同じく阪急移籍組の
平井正明(遊撃手・のち平井三郎)も打率.309をマーク。33歳の新人・南村不可止(のち南村侑広)は、遊撃以外のすべての内野ポジションを守り、規定打数&試合数(当時)に達しなかったものの打率.300&11本塁打&34盗塁を記録した。
投手陣に目を転じれば、巨人出身の
緒方俊明が20勝を挙げ、のちに上尾高監督として名を馳(は)せる
野本喜一郎が11勝でこれに続いた。
しかし・・・
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