
終戦後の日本中の野球少年があこがれたヒーロー・大下弘の引退試合にしてはスタンドの入りが寂しいが、3月1日は火曜日と平日だった
本塁打の美しさを国民に知らしめた
1945年12月1日のことである。西宮球場で行われた「日本職業野球連盟復興記念東西対抗戦」3戦目の9回表、西軍の投手・
丸山二三雄(南海=現
ソフトバンク)が投じた初球のストレートは、快音を残して高く舞い上がり、そのまま右翼席中段に飛び込んだ。それは戦争が終わり、プロ野球が復活してから初めてフェンスを越えた、正真正銘のホームランだった。
観客は興奮し、ホームランだ! と口々に言い合った。鮮やかな一発を放った左打者は、喧噪(けんそう)の中でホームベースを踏んだ。名は大下弘。明大を中退してセネタース(現
日本ハム)に入団したばかりの新人選手である。戦前はまったくの無名だった男は、まさしく彗星(すいせい)のように戦後のプロ野球に現れたのであった。
従来の打撃理論では、確実にゴロを打つことがよしとされ、フライは忌むべきものとされていた。大下の打撃は正反対だった。反動をつけて振り抜かれるバットからは、高く大きな打球がポンポンと飛んだ(ゆえに大下は『ポンちゃん』と呼ばれた)。そして戦争の惨禍に疲弊したファンを魅了したのは、地を這(は)うようなゴロよりも、青空に虹を架ける大きなホームランだったのである。
大下の本塁打を見ようと、戦前をはるかに上回る観客が球場に押し寄せた。その期待に応えた大下は、ペナントレースが再開された46年、20本の本塁打を放った。現代からすれば大した数字ではないかもしれない。だが、戦前のNPB記録が10本だったことを考えれば、その数は驚異的だった。46年のリーグ全体の本塁打数は211本。つまり大下一人で、そのうち約9.5%を占めたことになる。昨年度のパ・リーグに置きかえれば、その数は約53本に達する。
大下の打撃は・・・
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