
当日の試合の写真は弊社に残されていない。こちらは1984年、川崎球場で勝利投手になったときの仁科[左は当時のロッテ・稲尾和久監督]
1回目は83年8月20日、川崎
1970〜80年代のプロ野球を代表するアンダースローと言えば、阪急(現
オリックス)の
山田久志をおいてほかにはいないだろう。最多勝3回、最優秀防御率2回、20勝以上4回。76年からは3年連続でMVPに輝いた。鋭いシンカーを武器に一時代を築いた大投手であった。
80年9月21日のロッテ戦(平和台)で、山田は好投を見せた。1失点完投。文句のつけようがない内容だったが、勝利投手にはなれなかった。なぜならば、同じアンダースローの相手ピッチャーが、阪急打線をわずか1安打に抑えて完封したからだ。男はこの年、山田の13勝を上回る17勝を挙げることになる。彼の名は、
仁科時成。
もしも「腰痛」がなければ、仁科はプロ野球選手にならなかったかもしれない。山陽高から大倉工業に入社する直前、練習中の仁科の腰に激痛が走った。尾てい骨の一部が欠けたのだ。必死のリハビリで1年半後に腰痛は完治したが、これをきっかけに仁科は、それまで上手投げだった投球フォームを変えた。当初はサイドスロー。やがて腕はさらに下がり、最終的にはアンダースローになった。
これが飛躍のきっかけとなる。その後、補強選手として都市対抗に出場するまでに成長した仁科は、77年にドラフト3位でロッテに入団した。25歳と高齢でのプロ入りだったが、頭角を現すのは早かった。1年目から5勝を記録。2年目の78年には先発に定着し、9勝をマークした。
仁科は、140キロ前後のストレートに加え、シンカーやスライダー、100キロ前後の遅い球を縦横に駆使した。厳しい内角攻めも厭(いと)わなかった。時には投球のテンポを変え、相手打者のタイミングをずらすことで打ち取った。山田の投球術も参考にしたという。82年のシーズン序盤にエースの
村田兆治が右ヒジ痛を発症し、長期離脱を強いられると、同じ下手投げの
深沢恵雄とともにロッテ投手陣の屋台骨を支えた。
そんな仁科だったが、83年は左肩の打撲もあって不調に苦しんだ。8月20日の近鉄戦(川崎)に先発した際も、調子はよくなかったという。それでも仁科は・・・
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