
1991年4月14日の巨人戦[広島]はこの年の津田の2試合目の登板となったが、わずか9球を投げただけで降板する。結果的に、これが津田の最後の登板となった
強い人間ではないと自覚していた
1980年代、試合の最後を締める抑え投手がストッパーと呼ばれていた時代、「炎のストッパー」の異名を持つ右腕が広島カープにいた。
津田恒美(85年からは恒実)である。
当初は先発投手だった。協和発酵からドラフト1位で入団した津田は、ルーキーイヤーの82年に11勝6敗、防御率3.88の活躍で、広島の選手としては初の新人王に輝いている。しかし、その後は右肩痛や右手中指の血行障害に苦しみ、成績は下降していった。
そんな津田が、チームの守護神として甦(よみがえ)ったのは86年である。この年、津田は4勝6敗22セーブ、防御率2.08という成績を残してリーグ優勝に貢献し、カムバック賞を受賞した。その最大の武器は、躍動感あるフォームから投げ下ろされる、150キロ超のストレートだった。
津田の剛速球を強く印象づけた2つの場面がある。1つ目は、86年5月8日の
阪神戦(甲子園)。4対4の同点で迎えた9回裏、一死満塁と広島ピンチの状況で登板した津田は、好打者の
弘田澄男、この年2年連続で三冠王となった
ランディ・バースを相手に全球ストレートを投げ込み、ともに3球三振に切ってとった。最後、外角高めの唸(うなり)を上げる速球を空振りし、思わずバットを放り投げたバースは言った。「ツダはクレイジーだ」。
2つ目は、86年9月24日の巨人戦(後楽園)。9回裏、1対4と3点を追う巨人の攻撃、二死ながら走者を一塁に置き、7回に36号ソロアーチを放っていた
原辰徳が右打席に立った。7球目、津田が全力で投じたストレートをファウルした直後だった。原は苦悶(くもん)の表情を浮かべてうずくまった。左手の有鈎骨(ゆうこうこつ)が折れていた。炎と燃えた津田の剛球には、それほどの威力があったのである。
「弱気は最大の敵」。この言葉を座右の銘とする津田は、変化球を好まなかった。直球一本槍(やり)の真っ向勝負にこだわった。「キャッチャーの頭はいらんね。困ったらストレート。困らんときもストレート。全部ストレートです」と、バッテリーを組んだ
達川光男は語る。そしてその右腕でチームを勝利に導けば・・・
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