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【1949年7月24日】苦難のシベリア抑留から7年ぶりに帰国した水原茂が後楽園で万雷の拍手を浴びる

 

巨人監督・三原[左]から花束を受け取る水原。このときの三原は暴力事件の出場停止処分が明けた直後で、水原の復帰によって「水原監督待望論」が沸き起こる


「いつ日本に帰れるのだろう」


 1942年度のプロ野球(当時の呼称は職業野球)リーグ戦は、巨人の優勝で幕を下ろした。最高殊勲選手(MVP)に選ばれたのは、華麗な三塁守備を誇り、またチームをよくまとめ、優勝に貢献した水原茂である。全日程を終えた11月18日、MVPの表彰式が行われた。

 だが、この栄えある場に主役の姿はなかった。9月1日に召集令状を受けた水原は、このとき出征していたからである。太平洋戦争の開戦から、もうすぐ1年がたとうとしていた。代わりに巨人のユニフォームを着て表彰状を受け取ったのは、4歳の長男・新太郎だった。

 45年8月に終戦を迎えたとき、水原が所属する部隊は中国の牡丹江にあった。戦争が終わった以上、すぐに日本に帰れるはずだ。水原はそう信じた。しかし、現実は非情であった。水原の部隊は、ソ連軍によって行き先も告げられず、貨車で連行された。最後は雪が降り積もる極寒の原野を約120キロも歩かされた。そうしてたどり着いたのは、祖国から遠く離れた地、ソ連領タイシェットの強制収容所(ラーゲリ)だった。

 戦後、ソ連によって多くの日本人がシベリアやモンゴルに抑留された。厚労省によれば、その数はおよそ57万5000人。過酷な強制労働と劣悪な環境により、約5万5000人が命を落としたと言われる。いわゆる「シベリア抑留」である。水原も、抑留者の1人であった。

 当初は鉄道の路盤作り(レールを敷けるように土盛りをして固める仕事)をしていた水原だったが、程なくして浴場係に回された。風呂の水を沸かすための薪づくりが日課となった。硬い凍土を掘るよりは軽作業だったとはいえ・・・

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