
最後の打者・スチーブンスを空振り三振に打ち取り、ノーヒットノーランを達成した佐藤[左は三塁手・馬場敏史、右は捕手・中嶋]
練習生の立場のシーズンもあった
1977年、
佐藤義則は日大からドラフト1位で阪急(現
オリックス)に入団した。東都大学野球連盟を代表する投手だった佐藤の実力は、黄金時代を迎えていた阪急にあって1年目から発揮される。7勝3敗1セーブと好成績を残し、3年連続となる日本一に貢献。新人王にも輝いた。
佐藤の武器は、「ヨシボール」と呼ばれる独自の変化球だった。人差し指と親指でボールを挟む握りはカーブと同じだが、抜き方が違った。フォークのように落ちるボールは「きちんと抜けたときは打たれた記憶がない」と本人が語るほどの威力を見せた。77年の
巨人との日本シリーズでも、佐藤は「ヨシボール」によって
王貞治、
張本勲から連続で三振を奪っている。78年には13勝、79年には10勝を記録。
山田久志、
今井雄太郎らとともに、佐藤は阪急投手陣の一翼を担ったのであった。
そんな若き主力投手に逆境が訪れたのは、81年の1月、自主トレ中のことだった。前年に4勝13敗と低調な成績に終わった佐藤は、投球フォームを改造するためにオフ返上で猛烈な投げ込みを敢行した。それが祟(たた)り、重度のギックリ腰となったのである。さらには椎間板ヘルニアを発症したことで、佐藤はシーズン中、寝たきりの日々を過ごした。当然、一軍登板は1試合もなかった。
81年オフ、球団は佐藤に任意引退を通告した。あくまで再契約を前提とした処置だったが、練習生の立場に身を落としたことで、佐藤は「あまり振り返りたくない」と言うほどのショックを受けた。
一時は引退を覚悟したほどの重症だったが・・・
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